年齢ではなく責任を問え――飲酒をめぐる管理と成熟

酒をめぐる問題の本質は、年齢ではない。問われるべきなのは、その人が「大人」としての自覚を持っているかどうかである。ここで言う自覚とは、自分を見失わないこと、他人に迷惑をかけないこと、自らの欲望と行為の結果を自分で引き受けること、すなわち自己統御である。二十歳を超えたというだけで、その資格が自動的に与えられるわけではない。逆に言えば、飲酒の是非を、ただ年齢線だけで語ること自体が、問題の核心を外している。

その意味で、「STOP!20歳未満飲酒」「20歳まではゼッタイNG!」といった広告は、きわめて貧しい。そこでは、酒の問題が、誕生日が来たかどうかという形式的な条件にまで矮小化されている。本来、酒について教えるとは、節度とは何か、自己統御とは何か、他人に迷惑をかけないとはどういうことかを考えさせることであるはずだ。ところが実際には、そうした教育の言葉は失われ、「年齢だからダメ」という号令だけが残っている。これは成熟を促す言葉ではなく、ただ従順さを求める管理の言葉である。

そもそも、飲酒それ自体に直ちに道徳的な悪が内在しているわけではない。悪いのは、酔って自分を失い、公共的な危険や他者への加害を現実に発生させることのほうである。飲酒運転、暴力、器物損壊、他人への強要、救急搬送に至るような破綻――問題にすべきなのは、こうした客観的な失態であって、単に「飲んだ」という事実ではない。だから本来、飲酒の問題は年齢主義ではなく責任主義によって捉えられるべきである。二十歳以上であっても、酒に飲まれる馬鹿に酒を飲む資格はない。必要なら、その資格は剥奪されてよい。

この観点から見れば、「飲酒免許」の発想にも一定の合理性がある。それは、単なる能力試験ではない。むしろ、酒を飲む者に自覚と責任の誓約を課し、その誓約を重大な形で破った者から資格を奪う、という構想である。重要なのは、処罰対象を曖昧な不品行や人格評価に広げないことだ。対象はあくまで、外から確認できる重大な失態に限られるべきである。そうでなければ制度は私刑や密告の道具になる。しかし逆に言えば、基準を飲酒運転、暴力、器物損壊、強要、救急搬送程度に絞るなら、それは人格審査ではなく、酒によって現実の危険を生み出した者への責任追及として整合的に成り立つ。

また、ここで重要なのは、すべてを「酒のせい」にしてはならないということでもある。たとえばレイプのような重犯罪は、もはや酒の問題ではない。酒は免責の理由にはならず、せいぜい悪化要因でしかない。重犯罪は重犯罪として、その本体において処理されるべきである。

一方で、強制的に飲酒させられた場合は話が逆になる。そこでは問題なのは飲まされた者の自覚ではなく、飲ませた者の加害である。酔わせて判断力を奪った者、その状態を利用した者こそが責任を負うべきであり、被害者に責任を転嫁してはならない。

要するに、酒の問題とは、年齢の問題ではなく、自己統御と責任の問題である。「二十歳だから飲める」「二十歳未満だから絶対にダメ」という発想は、あまりに浅い。本当に問うべきなのは、その人が酒に飲まれず、他人に危害を加えず、自らの行為を引き受けられるかどうかである。年齢による一律禁止は管理の都合には役立つかもしれないが、成熟の本質には届かない。だから必要なのは、年齢主義ではなく責任主義への転換である。酒を飲む自由ではなく、酒を飲む資格を問え――それが、この問題を最もまっすぐに捉える言葉である。