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立花宗茂の生涯ー関ヶ原の敗将から奇跡の復活を遂げた武将

はじめに

戦国時代の終焉から江戸幕府の確立へと向かう激動の時代、ひとりの武将が歴史に類を見ない軌跡を描きました。
関ヶ原の戦いで西軍に属して改易されながら、20年の歳月を経て旧領への復帰を果たした武将―それが立花宗茂です。

「鎮西一」「西国無双」と称された彼の武勇は、敵味方を問わず多くの武将から敬意を集めました。
豊臣秀吉からは「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一」と評され、朝鮮出兵では碧蹄館(へきていかん)の戦いで先鋒として明軍を撃退。
関ヶ原では義を貫いて西軍に参加し、すべてを失いながらも、その人格と武勇で再び大名の地位を得るという、まさに武士の理想を体現した人物でした。

本記事では、立花宗茂の波乱に満ちた76年の生涯を、確かな史料に基づいて紐解いていきます。


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目次

  1. 二人の父に育まれた若き日々

  2. 秀吉に見出された若き猛将

  3. 碧蹄館の戦い―武名を天下に轟かせた一戦

  4. 義を貫いた関ヶ原での選択

  5. 浪人時代の品格と修練

  6. 徳川政権下での異例の復権

  7. 奇跡の旧領復帰

  8. 統治者として、そして武人としての晩年

1. 二人の父に育まれた若き日々

永禄10年(1567年)頃、立花宗茂は豊後国で大友氏の重臣・高橋紹運の嫡男として生を受けました。
生年については永禄12年(1569年)とする説も存在しますが、2017年に生誕450年記念展が開催されたことから、1567年説が有力視されています。

宗茂の人生を決定づけたのは、天正9年(1581年)に起こった養子縁組でした。
大友氏の名将として知られた立花道雪(戸次鑑連)には男子がなく、高橋紹運の嫡男である宗茂の器量を見込んで、娘・誾千代(ぎんちよ)の婿養子として迎え入れることを懇願したのです。

当初、紹運は嫡男を手放すことに難色を示しましたが、道雪の再三の要請に応え、宗茂は立花家を継承することになりました。
これは、血縁よりも能力を重視する戦国時代の「能力主義による事業承継」の典型例といえるでしょう。

しかし、若き宗茂を待ち受けていたのは、過酷な試練でした。
天正13年(1585年)9月、養父・道雪が筑後遠征中に陣没。
19歳で立花家の家督を正式に継承した宗茂は、翌天正14年(1586年)7月、島津軍の筑前侵攻という危機に直面します。

実父・高橋紹運が守る岩屋城は、島津義久率いる2万から5万ともいわれる大軍に包囲されました。
紹運は763名の寡兵で14日間の籠城戦を展開し、7月27日に全員討死を遂げます。
この悲報を受けた宗茂は、立花山城に拠って島津軍の侵攻を阻止し、豊臣秀吉の九州征伐軍が到着するまで持ちこたえました。

2. 秀吉に見出された若き猛将

天正15年(1587年)、豊臣秀吉による九州征伐が開始されると、宗茂は即座にこれに呼応しました。
秀吉軍の先鋒として島津方の拠点を次々と攻略し、その武功は秀吉の目に留まります。

九州平定後、秀吉は宗茂に破格の恩賞を与えました。
それまで大友氏の陪臣であった宗茂を豊臣家直参の大名に取り立て、筑後国山門・三池・下妻等の三郡、約13万2000石を与えたのです。
これは異例の出世であり、宗茂はこの恩義を終生忘れませんでした。

秀吉による宗茂の評価は、『明良洪範』(真田増誉著、享保年間成立)に詳しく記録されています。
同書には「秀吉公島津を征伐有て帰陣の後、立花宗茂を殊の外賞美せられ、若年なれども武勇は西国にて一人也と度々申出さる」との記述があります。

さらに天正18年(1590年)の小田原征伐では、秀吉が天下諸将を前に、東国の猛将・本多忠勝と宗茂を左右に並ばせ、「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と高らかに宣言したと『名将言行録』に記されています。
この一幕により、宗茂の名声は全国に轟くことになりました。

ただし、これらの称賛語は18世紀以降の編纂資料に依存しており、秀吉が実際に発した言葉を記録した同時代の一次資料は現時点で確認されていません。
それでも、宗茂が秀吉から高く評価されていたことは、豊臣政権下での待遇や後の事績から疑いようがありません。

3. 碧蹄館の戦い―武名を天下に轟かせた一戦

文禄元年(1592年)から始まった文禄・慶長の役において、宗茂の武名を決定づけたのが、文禄2年(1593年)1月26日の碧蹄館の戦いです。

平壌を奪還した明の提督・李如松が率いる大軍が漢城(現在のソウル)に向けて南下してくる中、日本軍内では籠城戦か迎撃戦かで意見が分かれました。
石田三成ら三奉行が籠城を主張する中、宗茂は小早川隆景とともに迎撃を強く主張し、自ら先鋒を務めることを願い出ました。

1月26日早朝、宗茂は弟の高橋統増(後の立花直次)とともに先鋒隊を率いて碧蹄館南面に布陣。
寡兵の策と伏兵戦術を用いて明軍先鋒を撃破し、さらに朝鮮軍に奇襲を仕掛けて撤退させました。
しかし、追撃の最中に明軍7000と遭遇し、逆に包囲される窮地に陥ります。

それでも宗茂は動じませんでした。
午前11時頃、小早川隆景の本隊が到着すると、宗茂は鉄砲隊200挺を率いて三連射を加え、敵の目を晦ませながら左側面から突撃。
立花・高橋軍約3000は敵本陣へ強襲し、宗茂自身も馬上から長槍を振るって敵将兵15人を討ち取ったと記録されています。

この激戦で、立花軍の金備え先鋒隊長・安東常久は李如松と一騎討ちし、落馬させる武功を挙げましたが、李如梅の矢を受けて戦死。
多くの家臣を失いながらも、宗茂らの奮戦により明軍を撃退することに成功しました。

戦後、小早川隆景は「立花家の3000は他家の1万に匹敵する」と評価し、秀吉からも「日本無双の勇将たるべし」との感状を拝領したと伝えられています。
この碧蹄館での活躍により、宗茂は名実ともに天下屈指の猛将として認められることになりました。

4. 義を貫いた関ヶ原での選択

慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に徳川家康と石田三成の対立が激化する中、宗茂は重大な決断を迫られました。

徳川家康は宗茂の武勇を警戒し、東軍に引き入れようと画策しました。
「筑後一国を与える」との触れ込みもあり、東軍の重臣・黒田長政や藤堂高虎らも宗茂に日和見を勧めました。
家臣の薦野増時(こものますとき)らも「西軍に勝ち目なし」と東軍参加を進言し、妻・誾千代も立花家存続のため東軍与同を勧めたといわれています。

しかし、宗茂の決意は揺らぎませんでした。
「秀吉公の恩義を忘れて徳川殿に味方するくらいなら、命を絶った方がよい」として、すべての誘いを退けたのです。
陪臣の身分から独立大名へと引き上げ、柳川を与えてくれた秀吉への恩義を、宗茂は何よりも重んじました。

宗茂は西軍の一員として大津城攻めに参加し、9月15日に開城させることに成功しましたが、同日、関ヶ原本戦は既に西軍の敗北で終結していました。
敗報を受けた宗茂は大坂城で毛利輝元に籠城戦を進言しましたが容れられず、柳川への帰途につきます。

帰路、関ヶ原で敗走する島津義弘と遭遇しました。
島津氏は天正14年の岩屋城攻めで実父・高橋紹運を討った宿敵でしたが、宗茂は「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」として討伐を退け、むしろ護衛して九州まで同行したと伝えられています。

柳川帰還後、宗茂は黒田如水(官兵衛)・加藤清正・鍋島直茂らの東軍勢力に包囲されました。
10月20日頃の江上・八院の戦いを経て、加藤清正の説得により柳川城を開城。
慶長5年10月、宗茂は13万2000石を没収されて改易となり、浪人の身となりました。

5. 浪人時代の品格と修練

改易後、宗茂は加藤清正の客分として肥後高瀬に一時滞在しました。
清正や前田利長から仕官を誘われましたが、すべて辞退しています。
その後京都に上り、困窮生活の中でも武芸・教養を磨き続けました。

慶長7年(1602年)には妻・誾千代が病没。
この時期、宗茂は太刀捨流(タイ捨流)剣術の免許皆伝を持ち、日置流弓術、大坪流馬術などを修め、茶道・能楽・書道にも通じていました。
立花家史料館には武芸免状が現存しており、文武両道の教養人としての姿が確認できます。

浪人時代の逸話として、家臣が雑炊を出した際に宗茂が「飯に勝手に汁をかけるな、不作法である」と激怒したという話が伝わっています。
しかし、これは後世の脚色と考えられ、実際には加藤清正や島津義弘ら旧敵の大名が客将待遇や資金援助を申し出て支援しており、その日の食にも困らない程度の支援はあったとされています。

むしろ重要なのは、宗茂が逆境の中でも武士の品格を失わず、己を研鑽し続けたという事実です。
この姿勢が、後に徳川政権下での復権につながっていきます。

6. 徳川政権下での異例の復権

慶長8年(1603年)から慶長9年(1604年)頃、本多忠勝の推挙により、宗茂は江戸城に召し出されました。
忠勝は「自分が保証するので宗茂を召し抱えてほしい」と家康に直言したとも伝えられています。

宗茂は御書院番頭(将軍親衛隊長格)として5000石を拝領し、徳川家に正式に仕官しました。
『徳川実紀』台徳院殿御実紀には「立花飛騨守宗茂入道立斎はさる古兵にて武名一時に隠れなし。当代御咄衆の第一にて御待遇並々ならず」と記されています。
これは幕府公式記録であり、信頼性の高い証言といえます。

慶長11年(1606年)、宗茂は陸奥国棚倉(南郷)1万石で大名に復帰しました。
慶長15年(1610年)には3万石に加増され、大坂冬の陣・夏の陣では徳川秀忠の軍事顧問として従軍しています。

7. 奇跡の旧領復帰

元和6年(1620年)、筑後柳川藩主・田中忠政が無嗣で没し田中家が断絶すると、宗茂は旧領・柳川に再封されました。
石高は10万9200石から10万9600石(資料により異なる)であり、関ヶ原で西軍に属して改易された大名のうち、旧領に復帰したのは宗茂ただ一人でした。
改易から復帰まで20年、まさに「奇跡」の達成でした。

この決定には、家康・秀忠父子の宗茂に対する厚い信頼と、「豊臣恩顧の名将を懐柔して手元に置く」という政治的思惑の両面があったと考えられています。
いずれにせよ、宗茂の人格と武勇が、敵であった徳川政権においても高く評価されていたことは疑いありません。

8. 統治者として、そして武人としての晩年

柳川再封後の宗茂は、優れた統治者としての手腕を発揮しました。
有明海に面した柳川の地は、干満の差が激しく、塩害や洪水のリスクと常に隣り合わせでした。

宗茂およびその継承者たちは、大規模な干拓事業と治水工事を実施しました。
柳川市の資料によれば、立花家の治政期において、約2000町(約2000ヘクタール)に及ぶ干拓地が造成されました。
この干拓事業は、藩の米生産能力を飛躍的に増大させ、10万石強の藩財政を実質的に上回る生産力を生み出しました。

また、干拓と並行して行われた治水事業は、住民の生活を洪水から守り、定住を促進しました。
水路(掘割)を城下町全体に張り巡らせることで、物資の輸送路としての機能と、防御・排水機能を統合した独特の都市計画を実現。
現在の柳川市の景観の原点は、この時代にあるといえるでしょう。

宗茂の統治思想を示す言葉として、『名将言行録』に以下の発言が記録されています。
「特別に何流の軍法を使うわけではない。常に兵士に対してえこひいきせず、慈悲を与え、国法に触れた者はその法によって対処する。したがって戦に臨むとみな一命をなげうって力戦してくれ、それがみな拙者の功になる」。

この発言は、「法治」「公平」「慈悲」を柱とする実践的な統治哲学を示すものです。
晩年、嫡男の忠茂や徳川義直(尾張藩主)から「軍勢統御の秘訣」を問われた際にも、宗茂は同様の考えを説いています。

寛永14年(1637年)、70歳を超えた宗茂は家督を嫡男・忠茂に譲って隠居しましたが、同年勃発した島原の乱には幕命により71歳で出陣しました。
松平信綱の補佐役・軍事顧問として作戦立案に参与し、有馬城(原城)攻城では一番乗りの武功を挙げ、諸大名から「武神再来」と称賛されました。

寛永19年(1642年)11月25日、宗茂は江戸柳原の藩邸にて死去。
享年76歳。
西暦換算では1643年1月15日に相当します。
遺骸は筑後柳川の福厳寺に葬られました。

おわりに

立花宗茂の生涯は、激動の時代を生き抜いた武士の理想像を体現しています。
若き日の武勇、義を貫いた関ヶ原での選択、浪人時代の品格、そして敵対者にさえ認められた人格――これらすべてが、宗茂を唯一無二の存在にしました。

「鎮西一」「西国無双」という称号が同時代の一次資料で確認できないとしても、関ヶ原で改易された大名の中で唯一旧領に復帰したという事実は、宗茂の人物像を雄弁に物語っています。
敵味方を超えて多くの武将から敬意を集め、加藤清正、黒田長政、本多忠勝、島津義弘といった名だたる武将たちが彼を支援し、推挙しました。

また、戦国の猛将でありながら、優れた統治者としての手腕も発揮しました。
柳川での治水・干拓事業は、現在まで続く地域の繁栄の基礎を築きました。

立花宗茂の生涯は、能力と人格、そして何よりも「義」を貫くことの重要性を、現代の私たちに教えてくれています。

参考文献

一次資料

  • 立花家文書(国指定重要文化財)柳川古文書館・立花家史料館所蔵

  • 大友家文書(国指定重要文化財)柳川古文書館寄託

  • 豊臣秀吉知行充行状(立花家文書所収)1587年

  • 『徳川実紀』徳川幕府編纂、1809-1849年

近世編纂資料

  • 真田増誉『明良洪範』享保年間(1716-1736年頃)成立

  • 岡谷繁実『名将言行録』明治2年(1869年)成立

現代研究

  • 中野等・穴井豪『柳川市史通史編 近世大名立花家』2012年

  • 吉永正春『筑前戦国史』(増補改訂版)海鳥社、2010年

  • 柳川市公式資料「柳川再封と治水・干拓事業」

  • 文化遺産オンライン「立花家文書」解説(文化庁)

  • 東京大学史料編纂所 Hi-CAT Plus データベース

参考ウェブサイト

  • 立花家史料館公式サイト

  • 柳川古文書館(柳川市)

  • 文化遺産オンライン(文化庁)

  • 豊後高田市「日本無双の戦国武将・立花宗茂について」

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