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六角義賢(承禎) | 信長に最後まで抗い続けた近江の知将

はじめに

「負けても勝った名門大名」――そんな言葉で語られる武将が、戦国時代の近江にいました。

六角義賢(ろっかくよしかた)、法名・承禎(じょうてい)。
近江南部を治める守護大名の嫡男として生まれ、日本最古の「楽市」文書を生んだ城下町の領主となり、強者・織田信長に敗れた後も6年以上にわたって山中でのゲリラ戦を展開した人物です。
大名の地位を失ってなお、豊臣秀吉の側近として仕え、78歳という長寿を全うしました。

「信長に負けた大名」の一言では語り尽くせない、波乱と知略に満ちた義賢の生涯を、史料に基づいて丁寧に辿ってみましょう。


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目次

  1. 六角義賢とはどんな人物か

  2. 近江という土地の地政学的な意義

  3. 父・定頼が残した二つの先駆的政策

  4. 義賢の治世――将軍を守る近江の覇者

  5. 観音寺騒動――家臣団との信頼崩壊

  6. 六角氏式目――戦国版「権利の大憲章」

  7. 織田信長との決戦

  8. 甲賀を拠点としたゲリラ戦

  9. 晩年と文化人としての横顔

  10. おわりに

  11. 参考文献

1. 六角義賢とはどんな人物か

六角義賢は、大永元年(1521年)に近江国(現・滋賀県)南部を治める守護大名・六角定頼の嫡男として生まれました。
六角氏は宇多源氏佐々木氏の嫡流として鎌倉時代以来、近江国の守護職を世襲してきた名門です。

天文2年(1533年)の元服に際しては、12代将軍・足利義晴から「義」の一字を与えられました(偏諱〈へんき〉と呼ばれる、将軍が信頼する部下に名前の一文字を贈る慣習)。
これは六角氏と将軍家の深い結びつきを公式に示すものでした。
天文21年(1552年)に父・定頼が没すると家督を継承し、以後は近江南部の支配者として活躍します。

後に出家して「承禎(じょうてい)」と号した義賢の治世は、楽市の推進・将軍保護・分国法の制定など先進的な施策に彩られていました。
しかし永禄6年(1563年)の観音寺騒動による家中分裂と、永禄11年(1568年)の織田信長の上洛によって大名としての地位は崩壊します。
それでも甲賀を拠点にゲリラ戦を継続し、最終的には豊臣政権のもとで御伽衆(おとぎしゅう・大名に仕える側近)として仕え、慶長3年(1598年)3月14日に没しました。
享年78歳です。

2. 近江という土地の地政学的な意義

義賢の活躍を理解するには、近江国という土地が持つ特別な地位を知っておく必要があります。

近江(現・滋賀県)は、東国と京都・畿内を結ぶ東山道(後の中山道)と東海道が交わる、日本屈指の交通の要衝でした。
伊勢方面へ向かう八風街道や北陸へ通じる北国街道も交差しており、人・物・金が必ず通過する「物流のハブ」とも言うべき場所です。
加えて琵琶湖という広大な内水面交通路を抱え、水上輸送においても他地域を圧倒していました。

六角氏はこの地理的優位を最大限に活かし、街道沿いの関所や湊(港)を管理することで安定した収入を得ていました。
単なる領土拡大ではなく、人と物が必ず通るルートを押さえるという戦略的発想が、六角氏の経済的・政治的な基盤を長きにわたって支えていたのです。

六角氏の本拠である観音寺城は、繖山(きぬがさやま・標高432.9メートル)の山上に築かれた大規模な山城です。
平成20〜23年度(2008〜2011年)に滋賀県教育委員会が実施した詳細調査によって、城域は約259万平方メートル、石垣が948か所確認されています。
中世五大山城の一つに数えられ、1982年に国の史跡に指定、2006年には日本100名城にも選ばれました。

3. 父・定頼が残した二つの先駆的政策

義賢の業績を正しく評価するには、父・六角定頼(1495〜1552年)が遺した二つの画期的な政策を把握することが欠かせません。

城割(しろわり)

大永3年(1523年)、定頼は「惣国に城郭停止(領国内の城を廃止する)」を命じ、家臣が各地に持っていた居城を破却して観音寺城へ集住させました。
これは文献上確認できる日本初の「城割」とされています。

城内の各曲輪(くるわ・城内の区画)が「平井丸」「池田丸」「布施淡路丸」など家臣の姓で呼ばれていたのは、この集住政策の痕跡と考えられています。
国人領主(こくじんりょうしゅ・地方の有力武士)の独立性を抑え、軍事・政治拠点を一体化するという発想は、後の豊臣秀吉による「一国一城令」の先駆けとも評されています。

なお滋賀県教育委員会(2011年)は、城内の多数の削平地(整地した跡)が家臣団の屋敷跡か、中世山岳寺院・観音正寺の坊院跡かの区別は今後の課題としており、実態の解明はまだ途中段階にあります。

楽市(らくいち)

天文18年(1549年)12月11日付の文書には、「石寺新市の儀、楽市たるの条、是非に及ばず(石寺の新市は楽市であるから、文句を言うべきではない)」という記述があります。
これは「楽市」という言葉が確認できる日本最古の文献として広く知られています。

当時の日本の商業は「座(ざ)」と呼ばれる同業者組合(ギルド)によって独占されていました。
座の構成員は寺社や公家に税を納める代わりに排他的な販売権を持ち、新規参入を妨げる仕組みになっていたのです。
この文書は、近江愛知郡枝村の紙商人と保内商人の間で起きた紛争を調停したもので、観音寺城の城下町・石寺新市では座の独占権を排除し、自由な商取引を認めることを裁定しています。

ただし学術的には、この文書は新たに楽市を設定したものではなく、すでに楽市として存在していた石寺新市の状況を確認したにすぎないとする見解もあります(長澤伸樹、2019年)。
また当時の当主はあくまで義賢の父・定頼であり(定頼の没年は1552年)、楽市の実施は定頼の治世に属するものです。

なお織田信長が後に観音寺城に近い安土へ築城し、天正5年(1577年)に安土楽市令を発布した背景には、六角氏時代の商業的蓄積があったと考えられています。
信長が安土城内に定頼の法名にちなんだ「江雲寺御殿」を建てたことも、その証左の一つとして注目されています。

4. 義賢の治世――将軍を守る近江の覇者

天文21年(1552年)に家督を継いだ義賢は、父から受け継いだ将軍保護の路線を着実に歩みました。

義賢の父・定頼は、12代将軍・足利義晴が細川晴元との抗争で京都を追われた際に近江へ受け入れ、帰京を複数回実現させた人物です。
この功績によって管領代(かんれいだい・幕府の政務を代行する役職)の地位を得ており、六角氏は室町幕府との密接な関係を築いていました。
義賢もこの方針を継承し、永禄元年(1558年)には13代将軍・足利義輝と三好長慶の和睦を仲介して、義輝の京都帰還を実現させています。
将軍の権威を背景に畿内政治での影響力を保つ、伝統的な守護大名の外交スタイルを体現した人物でした。

一方で義賢の治世は困難の連続でもありました。
三好長慶との畿内での争いに苦しみ、永禄3年(1560年)には野良田の戦いで浅井長政に大敗しています。
この敗戦を機に浅井氏は六角氏からの自立傾向を強め、かつての従属関係は逆転することになりました。

5. 観音寺騒動――家臣団との信頼崩壊

義賢の治世を語る上で避けられないのが、永禄6年(1563年)10月1日に起きた「観音寺騒動」です。

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