島津忠恒(家久) | 関ヶ原に負けても何も失わなかった男
はじめに
「負ければ終わり」。
それが戦国から江戸へと移る時代の鉄則でした。
関ヶ原の戦いで西軍に加担した大名たちは、次々と改易・減封の憂き目に遭いました。
毛利輝元は120万石から37万石へ。
上杉景勝は120万石から30万石へ。
宇喜多秀家はお家そのものが消滅しました。
しかし一人だけ、まったく違う結末を迎えた男がいます。
島津忠恒——のちに「家久」と改名するこの男は、西軍に属しながら薩摩・大隅・日向の旧領を一石も失うことなく守り切りました。
さらに琉球を支配下に置き、独自の交易ルートで財政を立て直し、後に77万石の大藩として250年以上続く薩摩藩の基盤を作り上げました。
「力を持ちながら従順を演じる」「内部を固めながら外交で動く」——忠恒(家久)の生涯には、強大な権力に挟まれた組織が生き残るための思想が凝縮されています。
1.「蹴鞠と酒色」の若者が後継者になるまで
島津忠恒は天正4年(1576年)11月、島津義弘の三男として生まれました。
島津家は戦国時代に九州の大半を支配するほどの大勢力を誇った名門ですが、豊臣秀吉の九州征伐(1587年)で敗北して以後、薩摩・大隅・日向の3国に抑え込まれた状態が続いていました。
忠恒の兄たちは相次いで失われました。
長兄は早世し、次兄・久保が文禄2年(1593年)に朝鮮の陣中で病没します。
これにより豊臣秀吉の指名のもと、忠恒が島津氏の後継者に定められました。
しかし当初の評価は芳しくありませんでした。
朝鮮在陣中の父・義弘が書状で叱責するほど、酒色や蹴鞠に明け暮れていたとされています。
それが変わったのは、当主としての意識が芽生えてからです。
忠恒は父・義弘に従って朝鮮へ渡り、実戦を経験しました。
その後継者としての本格的な試練は、慶長3年(1598年)に訪れます。
2.泗川の戦い——7,000対29,000の逆転劇
慶長3年(1598年)10月1日早朝、泗川(サチョン)新城に籠もる義弘・忠恒の父子を、明・朝鮮連合軍が包囲しました。
朝鮮側の公式記録(朝鮮宣祖実録)によれば、明軍26,800人・朝鮮軍2,215人、計約29,000人という大軍です(日本側の島津家文書・征韓録では「敵兵20万」と記しますが、朝鮮側資料との乖離が大きく、現代の研究者の間では後者の方が実態に近いとされています)。
対する島津軍は実質的な戦闘員が約7,000〜8,000人にすぎませんでした。
義弘はぎりぎりまで敵を引き付けたうえで鉄砲を集中射撃し、あらかじめ配置した伏兵を突出させる戦法を取りました。
戦闘の最中、連合軍の火薬庫が偶発的に誘爆を起こして指揮系統が乱れると、義弘は城門を開いて総追撃に転じます。
忠恒も自ら前線に出て敵兵を斬りました。
この戦功は大きく評価され、翌慶長4年(1599年)1月9日、五大老から5万石の加増と左近衛少将への任官が与えられます。
朝鮮出兵の参加大名の中で、加増を受けたのは島津家だけでした。
3.伊集院忠棟暗殺——当主権を血で掴んだ日
泗川での武功が認められたまさにその頃、島津家では内部に深刻な問題が積み重なっていました。
筆頭家老・伊集院忠棟(幸侃)は、豊臣秀吉から直接8万3,000石余の知行を与えられた「御朱印衆」でした。
これは島津家の家臣でありながら、豊臣政権からは独立した大名に近い地位として扱われることを意味します。
石田三成ら奉行衆とも密接な関係を持ち、島津本家を凌駕しかねない権勢を誇っていました。
慶長4年(1599年)3月9日、忠恒は伏見の島津邸に忠棟を呼び出し、自らの手で斬殺しました。
暗殺の詳しい計画過程については同時代の一次資料に確証がなく、忠恒単独の決断とする説と、義弘・義久の同意を得た上での行動とする説が軍記物の間で食い違っています。
本記事では確認できる事実のみを記述します。
この暗殺は豊臣政権への反逆と見なされかねない極めて危険な行為でした。忠恒は高雄山神護寺に謹慎しましたが、直後に石田三成が政争に敗れて失脚し、実権を握った家康がこの行為を支持したことで、罪は事実上不問となりました。
忠棟の子・伊集院忠真は国許の庄内(宮崎県都城市周辺)で反乱を起こしましたが(庄内の乱、1599〜1600年)、家康の調停で降伏。
さらに忠真は慶長7年(1602年)、日向の野尻で行われた狩りの最中に忠恒によって射殺され、伊集院一族はこれ以後島津家から排除されました。
4.関ヶ原後の2年間——「武備恭順」という名の駆け引き
慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いで父・義弘が西軍として参戦し、敗北します。約1,500の寡兵で参戦した義弘は、合戦後に敵中突破(島津の退き口)で帰国し、桜島で謹慎しました。
徳川方は井伊直政らを通じて義久に繰り返し上洛を要求しましたが、義久は「病気」を理由に頑として拒絶し続けました。
交渉の窓口を担った忠恒は、同時に国境に臨戦態勢の法度を発布し、領内の武備を維持し続けました。
これが「武備恭順」と呼ばれる戦略です——力を温存しながら、外交的には従順な姿勢を示す。
家康は3万程度の討伐軍を号令しましたが、遠い薩摩への本格遠征を命じることはできませんでした。
島津領を攻略するには莫大なコストがかかり、かつ成功の保証もないからです。
交渉は約2年続きます。
慶長7年(1602年)4月、家康から薩摩・大隅・日向の所領安堵の誓約が届きました。
同年12月、忠恒は伏見城で家康に直接謝罪し、講和が成立。
毛利・上杉・宇喜多が大幅に削られたのとは対照的に、島津は旧領をそのまま維持することに成功しました。
研究者の間では、この結果を「武備恭順策の成功」と評価する声があります。
5.鹿児島城の「天守なき哲学」
和平が成立した直後の慶長6年(1601年)頃、忠恒は新たな居城の築城を開始しました。
鹿児島城(鶴丸城)は、城山南麓の平地に居館を置き、背後の城山(上山城)を山城として活用する平山城形式を採りました。
特筆すべきはその質素さです。天守を設けず、重層の石垣も深い濠もない。
77万石(後の表高)の大大名の本城としては異例に小規模な構えでした。
幕府への恭順を視覚的に示す「政治的演出」だったとみられています。
しかし防衛の実態は異なりました。
背後の城山(標高107メートル)を天然の要塞として整備し、有事には山に退避して防戦できる二重構造になっていました。
また北東の石垣の角部をわざと直角に欠けさせた「鬼門除けの隅欠」が施されるなど、独自の工夫も見られます。
「見せる城」と「守る城」を巧みに使い分けた設計でした。
慶長9年(1604年)に完成したこの城は、廃藩置県まで約270年にわたって島津氏の本城として機能し続けました。
6.琉球出兵——財政危機を海の向こうで解決した
鹿児島城の完成後も、薩摩藩の財政は深刻な状態が続いていました。
慶長11年(1606年)頃の検地では、知行地全体の約2割が実質的に年貢を徴収できない不毛地であることが発覚したとされます。
同年、忠恒は家康から「家」の一字を拝領し「家久」と改名。
幕府との信頼関係を外形的に固めながら、内側では財政危機の打開策として琉球王国への出兵を計画しました。
慶長14年(1609年)3月4日、家久は樺山久高を総大将、平田増宗を副大将とする約3,000人・70〜80隻の軍勢を山川港から派遣。
鉄砲734挺を装備した薩摩軍は奄美大島・徳之島・沖永良部島を制しながら南下し、3月27日に今帰仁城を攻略。
4月1日に首里城を開城させ、国王・尚寧以下の重臣を捕虜として薩摩に連行しました。
翌1610年、家久は尚寧を伴って家康・秀忠に謁見。
慶長16年(1611年)には「掟十五条」を琉球に課し、支配関係を制度化しました。
奄美諸島は薩摩の直轄領とされました。
この結果、薩摩藩は幕府の海禁政策(鎖国化)の中にあって、琉球を仲介とした中国(明・清)との朝貢貿易の利益を間接的に得る「琉球口」を確保しました。
「日本の藩属でありながら清帝国への朝貢国」という琉球の二重の地位が、薩摩に莫大な財政基盤をもたらし続けたのです。
7.外城制——薩摩だけが持った分散型軍事統治
薩摩藩の統治において独自性が際立つのが「外城制(とじょうせい)」です。
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