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佐久間信盛 | 「退き佐久間」が辿った波乱の生涯―織田信長に追放された筆頭家老

はじめに

天正8年(1580年)8月、戦国史に残る衝撃的な事件が起こりました。
織田信長の筆頭家老として30年近く仕え、数々の戦で功績を挙げてきた佐久間信盛が、突如として追放されたのです。
信長自らが筆を執った19ヶ条もの折檻状は、長年の功労者を全否定する苛烈な内容でした。

「退き佐久間」と称され、撤退戦の名手として知られた信盛。
なぜ、これほどまでに信長の信頼を得ていた重臣が、一夜にして地位を失わなければならなかったのでしょうか。
本記事では、佐久間信盛の生涯を辿りながら、織田政権が目指した組織改革の本質に迫ります。


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1. 佐久間信盛とは誰か

佐久間信盛は、大永7年から享禄元年(1527-1528年頃)、尾張国愛知郡山崎(現在の名古屋市南区)に生まれました。
父は佐久間信晴。
佐久間氏は桓武平氏三浦氏流を称する尾張の国人領主であり、代々織田家に仕えてきた名門でした。

信盛は織田信長の父・織田信秀の代から仕え、幼少の信長の養育にも関与したとされています。
信長が家督を継いだ後も一貫して信長を支持し、弘治2年(1556年)の稲生の戦いでは、信長の弟・信勝(信行)を擁立した柴田勝家や林秀貞らとは対照的に、信長方として戦いました。
この忠誠心が評価され、信盛は織田家の筆頭家老という地位を確立したのです。


2. 織田家草創期からの重臣として

信盛の活躍は、織田家の主要な戦いのほぼすべてに及びます。

永禄3年(1560年)5月19日、今川義元との桶狭間の戦いでは善照寺砦の守備を担当しました。
この戦後、信長は今川方の拠点であった鳴海城を信盛に与え、織田家における重臣的地位を明確にしました。

元亀元年(1570年)の姉川の戦い、元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちにも参加し、近江国栗田郡を領有するなど、着実に勢力を拡大していきます。
また、永禄10年(1567年)8月には、信長の上洛準備のため柳生宗厳へ礼状を送り、奈良油煙の贈答に感謝しながら南都出兵への協力を依頼するなど、外交面でも重要な役割を果たしていました。


3. 「退き佐久間」の異名が示すもの

信盛を語る上で欠かせないのが「退き佐久間」という異名です。
後世の講談などでは「逃げ足が速い」「臆病である」といった否定的な意味で解釈されることもありますが、実際には全く異なる意味を持っていました。

戦国時代の合戦において、最も困難かつ高度な指揮能力を要するのが、敗勢時や作戦変更時における「撤退戦(殿戦・しんがり)」でした。
敵の追撃をかわしながら自軍の秩序を保ち、損害を最小限に抑えて退却することは、部隊の崩壊を防ぐために不可欠な高等戦術だったのです。

「退き佐久間」とは、この撤退戦において自軍の損害を最小限に抑え、整然と軍を引く能力に長けていたことを称賛する呼び名でした。
猪突猛進型の柴田勝家が「掛かれ柴田」と称されたのと対をなす形で、信盛は慎重かつ堅実な部隊運用を特徴としていました。

織田軍の初期段階において、信長の奇抜でリスクの高い作戦を後方から支え、万が一の際の安全装置として機能したのが信盛だったのです。


4. 石山本願寺戦争と司令官就任

信盛の運命を大きく変えたのが、石山本願寺との戦いでした。

元亀元年(1570年)9月、浄土真宗本願寺第11世法主・顕如が挙兵し、約10年に及ぶ石山本願寺戦争が開始されました。
天正4年(1576年)5月7日の天王寺の戦いにおいて、それまで対本願寺戦を指揮していた塙直政が本願寺方の雑賀衆の鉄砲隊によって戦死すると、信長は信盛を塙の後任として対本願寺戦の総司令官に任命しました。

信盛に与えられた権限と兵力は、織田家臣団の中で最大規模のものでした。
三河・尾張・近江・大和・河内・和泉・紀伊という7ヶ国からの与力が配属され、根来衆を含む織田家中最大規模の軍団を統括することとなったのです。

信長がこれほどの巨大な兵権を与えた背景には、本願寺という強大な宗教勢力を封じ込めるには相応の重厚な布陣が必要であるという判断と、筆頭家老である信盛ならばこの大軍を統御できるだろうという期待がありました。


5. 5年間の膠着と信長の苛立ち

しかし、天正4年(1576年)から天正8年(1580年)までの約5年間、信盛が指揮を執った石山本願寺の戦線は膠着状態に陥りました。

信盛は積極的な攻勢に出ることを極端に避け、砦を築いて本願寺を遠巻きに包囲する戦術に終始しました。
これは「兵を損なわずして勝つ」という彼本来のスタイルの延長でしたが、信長が求めたのは、敵に絶えず圧力をかけ続け、消耗を強いる動的な包囲だったのです。

天正4年(1576年)7月の第一次木津川口海戦では毛利水軍の援助を受けた本願寺方に敗北し、天正5年(1577年)には松永久秀、天正6年(1578年)には荒木村重が相次いで謀反を起こすなど、畿内情勢は不安定化していきました。

信長は同時期の他の方面軍司令官の活躍と比較し、信盛の「功績なし」を厳しく指弾するようになります。
明智光秀の丹波平定、羽柴秀吉の中国方面での活躍、柴田勝家の加賀平定、池田恒興の花隈城攻略など、他の武将たちが次々と成果を上げる中、信盛だけが戦線を動かせずにいたのです。


6. 19ヶ条の折檻状が突きつけたもの

天正8年(1580年)閏3月5日、正親町天皇の勅命により本願寺との講和が成立し、顕如は4月9日に紀伊鷺森へ退去しました。
10年続いた石山合戦がようやく終結したのです。

しかし、戦争終結から間もない天正8年8月、信長は信盛・信栄父子に対して全19ヶ条の折檻状を「御自筆」で送付しました。
信長の自筆文書は極めて稀少であり、『信長公記』もその点を特筆しています。
折檻状の核心は以下の諸点でした。

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