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別所長治 | 「三木の干殺し」を戦った播磨の若き城主

はじめに

戦国時代、城主が自らの命を差し出すことで、城に籠もった数千の人々を救おうとした男がいました。

播磨国三木城の城主・別所長治。
彼は名門の家に生まれ、父の死後、十代前半の若さで家督を継いだとされます。
織田信長の中国攻めに協力する道を歩みながら、ある時点で離反を決意し、毛利氏と手を結びます。
その結果として待ち受けていたのは、羽柴秀吉が仕掛けた一年十か月に及ぶ兵糧攻め――後世「三木の干殺し」と呼ばれる、戦国時代屈指の過酷な籠城戦でした。

城内で何が起きたのか。なぜ長治は最後にあの決断を下したのか。
四つの調査資料を照らし合わせながら、三木合戦の全貌をたどります。




1.別所氏とは何者か――名門の出自と東播磨支配

別所氏は、播磨国の守護大名・赤松氏の庶流に連なる名門武家です。
室町時代中期の嘉吉の乱で赤松氏が一時衰退した後、別所則治が美嚢郡(みのうぐん)に三木城を築いて勢力を再興しました。
三木城は美嚢川の突端に位置し、急流を天然の堀とする堅城であり、南側は山と谷に守られた要害でした。

別所氏は祖父・就治、父・安治の代に東播磨八郡を支配する有力な戦国大名へと成長します。
三木は交通・商工業の拠点として発展していたとされ、後世には金物産業の町としても知られます。

元亀元年(1570年)、父が48歳で病死すると、長治は若くして家督を継ぎました。
生年には諸説あり、通説では家督相続時は十代前半とみられています。
幼い当主を支えたのは、二人の叔父でした。
強硬派の別所吉親(賀相)と穏健派の別所重棟(重宗)。
この二人の路線対立が、後に一族の命運を大きく左右することになります。


2.織田への臣従と離反の構造

長治は天正3年(1575年)に織田信長に謁見し、臣従の姿勢を示しました。天正5年(1577年)の紀州雑賀攻めには叔父の重棟とともに参陣し、羽柴秀吉や荒木村重らと共同で軍事行動を展開しています。
『信長公記』にも「別所小三郎」として記録が残っており、この時点で別所氏は明確に織田陣営の一員として機能していました。

ところが天正6年(1578年)2月から3月にかけて、長治は突如として織田方から離反します。
毛利輝元や本願寺と結んで三木城に籠城するという重大な決断でした。

離反の理由をめぐっては、複数の説が提示されてきました。
軍記物語『別所長治記』は、加古川城での軍議(加古川評定)において叔父の吉親が秀吉と衝突したことを契機としたと記します。
名門意識の強い吉親にとって、出自の低い秀吉に従うことは耐え難い屈辱だったというのです。

しかし、この「加古川評定」説は後世の軍記に由来するものであり、史料批判上の信頼性は高くありません。
2024年2月、東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授と兵庫県立歴史博物館は、秀吉に関する書状の写し35通を調査・公表しました。
この中に含まれていた秀吉側の弁明書からは、秀吉が別所方の城を破却させた「城割り」をめぐるトラブルが離反の引き金であった可能性が浮かび上がっています。

確実に言えるのは、一族の中で意見が割れたということです。
強硬な反織田路線を主張する吉親の意見を長治が採択し、穏健派の重棟は秀吉方に留まりました。
長治は毛利氏・本願寺と結び、東播磨の国衆を糾合して約7,500人の兵と領民を三木城に集結させます。
この「諸籠り」と呼ばれる形態が、後に膨大な食糧を必要とする要因となりました。


3.三木城包囲戦の開始――秀吉の「干殺し」戦術

天正6年(1578年)3月29日、秀吉は三木城の包囲を開始しました。
三木城は天然の要害であり、正面からの力攻めでは多大な犠牲が避けられません。
秀吉は従来の「城は力攻めで落とす」という常識を捨て、補給路を遮断して城内を飢えさせるという戦術を選びました。

まず秀吉は支城の各個撃破に取りかかります。
4月に野口城、7月には神吉城と志方城を攻略しました。
神吉城では城兵約1,800~2,000前後、織田方を約3万とする説があり、三木合戦前半の激戦となりましたが、7月16日に落城しています。

主要な支城が失われたことで、三木城と外部をつなぐ連絡・補給の経路は実質的に機能しなくなっていきました。


4.付城群の構築と補給路の遮断

秀吉が採った戦略の核心は、城の周囲に大量の砦を築いて「面で締め上げる」包囲網の形成にありました。
三木城北方2.8キロメートル、標高145メートルの平井山に本陣を置いた秀吉は、城を取り囲む東西約6キロメートル、南北約5キロメートルの広大な範囲に、40か所以上の付城を段階的に構築しました。

付城群の構築は3段階で進められています。
第1期(天正6年6月から8月)は織田信忠本隊との連携による北・西側への展開。第2期(天正7年春)は信忠軍による6か所の追加構築。
第3期(天正7年10月以降)は南・西側の最前線付城群の完成と封鎖線の最終段階です。

三木市教育委員会の発掘調査によれば、付城は地形に応じて多様な構造を持っていました。
土塁で囲まれた主郭に複雑な虎口を備えた強固な防御型、大規模な駐屯部を確保した兵力集中型など、攻城戦の拠点として計画的に配置されたことが明らかになっています。

特筆すべきは、各付城の間を基底幅4から5メートル、高さ約1メートルの土塁を数重に連結するという大規模な土木工事が行われた点です。
城の南側に構築された「朝日ヶ丘土塁」は、姫路道や有馬道を通じた商人による物資搬送と、毛利方からの兵糧搬入を物理的に遮断する防線として機能しました。

川面には駕籠を伏せて梁杭を打ち込み、橋の上には見張りが置かれ、竹筒に米を詰めて水路で搬入する試みすら発覚し、中継地の教海寺が焼かれました。
あらゆる補給路が、秀吉の執拗な監視網によって塞がれていったのです。


5.反乱の連鎖――荒木村重の謀反と補給路の一時開通

長治の離反から約8か月後の天正6年(1578年)10月、摂津国の荒木村重が有岡城で織田信長に謀反を起こしました。
この離反は別所長治の挙兵と連動する反織田勢力の連鎖的な反乱のひとつであり、丹波の波多野秀治(長治の舅とも伝わる)の離反とともに「反信長包囲網」を活性化させる出来事でした。

村重の離反は三木城にとって一縷の望みをもたらしました。
摂津の港で陸揚げされた物資が花隈城から丹生山を越えて三木城へ搬入される新たな補給ルートが一時的に開通し、籠城の継続を可能にしたのです。

しかしこの連携は長く続きませんでした。
高山右近と中川清秀が秀吉方に降伏したことで村重は孤立し、天正7年(1579年)9月に有岡城を脱出。
11月に有岡城は落城し、三木城との補給路は再び途絶えました。

天正7年に入ると、秀吉は包囲をさらに厳重にします。
5月には弟の羽柴秀長が丹生山明要寺を攻略し、東からの補給路を遮断。
6月13日には、兵糧攻めの立案者とも伝えられる竹中半兵衛(重治)が平井山の陣中で病没しています。享年36歳でした。

9月10日、毛利・別所連合軍は最後の大規模な兵糧搬入作戦を実行しました。
平田・大村合戦と呼ばれるこの戦いで、秀吉方の谷衛好が戦死するほどの激戦となりましたが、別所方も淡河定範・後藤基国ら多くの武将を失って大敗。
組織的な兵糧搬入は完全に失敗に終わりました。


6.飢餓地獄の実態――城内で何が起きたか

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