【日めくり天才伝】足元のアリから地球の未来へ
エドワード・オズボーン・ウィルソンの生涯と思想
「21世紀のチャールズ・ダーウィン」とも称されるエドワード・オズボーン・ウィルソン(E. O. Wilson)。彼はアリという極小の生物の研究から出発し、最終的には人間の本性や地球全体の生態系を守る壮大な理論にまで到達した、現代知性の巨人だ。ハーバード大学教授として長年にわたり教鞭を執り、2度のピューリッツァー賞に輝いた彼の生涯は、科学的な探究心と、生命に対する深い愛情に満ちていた。
少年時代の「不運」が、アリの世界的権威を作った
1929年、アメリカ南部に生まれたウィルソンは、幼い頃から豊かな大自然に魅了されていた。しかし7歳のとき、フロリダの海岸で釣りをしていた彼は、釣り針を引き上げた拍子に鋭い針先が右目を直撃するという不運な事故に見舞われた。手術は受けたものの右目の視力はほとんど失われ、さらに十代の頃には遺伝的な要因から高音域の聴力も失われてしまう。
遠くを飛ぶ鳥を観察することも、その美しいさえずりを耳で追うこともできなくなった少年は、しかし絶望しなかった。「私は地面に近づき、小さな昆虫たちに焦点を合わせた。彼らなら、片目でも指でつまんで完璧に見ることができる」。身体的な限界を受け入れ、むしろそれを独自の強みへと転換したのだ。
この怪我をきっかけに、彼は足元に広がる小宇宙、すなわち生涯の友となる「アリ(蟻)」の研究へと深く没頭していく。視野の狭さが、結果としてミクロの世界への驚異的な集中力を生み出したのである。
アリの言葉の解明――世界初の「化学物質による対話」の証明
ウィルソンの研究者としてのキャリアにおいて、最もエレガントな業績の一つが、アリたちのコミュニケーション方法の解明だ。
1950年代当時、アリがどのようにして一糸乱れぬ集団行動をとるのかは謎に包まれていた。「アリは匂い物質(化学物質)で会話しているのではないか」という仮説を立てたウィルソンは、ヒアリの腹部にある目に見えないほど小さな分泌腺をピンセットで慎重に取り出し、その抽出液を用いて実験を行った。
実験室のガラス板の上に抽出液を含ませた筆で「1本の線」を描くと、驚くべき現象が起きた。近くにいたアリたちが、まるで目に見えない道標が現れたかのように、一斉にその線を正確に辿り始めたのだ。これが、生物が分泌する化学物質「フェロモン」による情報伝達を世界で初めて明確に証明した瞬間だった。アリの社会構造を次々と解き明かした彼は、まさに「アリの言葉を翻訳した男」として世界の頂点に立った。
水をぶっかけられた「社会生物学の父」
アリの社会行動を研究し尽くしたウィルソンは、1975年、進化生物学における金字塔となる大著《社会生物学(Sociobiology)》を発表する。
アリやハチが巣(集団)のために自らの命を捧げる「利他行動」は、自らの遺伝子を効率よく後世に残すための進化の結果である、と論じたこの本は、最終章で物議を醸した。この生物学的なメカニズムを人間の行動(道徳、宗教、戦争、愛、文化など)にも当てはめ、人間の本性もまた遺伝的な進化の歴史によって規定されているのではないか、と言及したのだ。
時は1970年代、ベトナム戦争や人種差別問題が渦巻く中、「これは人種差別や優生思想を正当化する危険な思想だ」という猛反発を食らった。ハーバード大学の同僚であったリチャード・ルウォンティンやスティーヴン・ジェイ・グールドら左派の科学者たちからは、人格否定に近い容赦ない批判を浴びせられた。
批判は言論だけに留まらなかった。1978年のアメリカ科学振興協会(AAAS)のシンポジウムで壇上に立ったウィルソンに、反対派の活動家や学生たちがステージになだれ込み、「ウィルソン、お前は間違っている!」と叫びながら氷水の入ったピッチャーの水を頭から浴びせかけたのである。
しかしウィルソンは声を荒らげることもなく、静かにハンカチで髪と顔を拭き、何事もなかったかのように講義を再開した。この紳士的で毅然とした態度が、のちに彼の理論が客観的かつ正当に評価される大きな呼び水となる。その後、一般向けに書いた《人間の本性について(On Human Nature)》で2度目のピューリッツァー賞を受賞し、今日彼が提唱した「社会生物学」の視点は、現代の「進化心理学」や「生態学」の当たり前のアプローチとして深く根付いている。
地球を守る壮大な遺言――「ハーフ・アース」計画
晩年のウィルソンは、人間活動によって急速に破壊されつつある地球の生物多様性を救うため、環境保護活動にエネルギーのすべてを注ぎ込んだ。
2016年に提唱した「ハーフ・アース(Half-Earth)」計画は、地球の陸地と海の「半分(50%)」を人間が手を出さない自然保護区に指定しようという壮大な提案だ。一見すると荒唐無稽とも思えるが、この提案の裏には緻密な数理科学的裏付けが存在していた。
若き日にロバート・マッカーサーと共に確立した「島嶼生物地理学(Theory of Island Biogeography)」の理論によれば、生息地の面積と種の数の間には一定の法則的な関係が成り立ち、生息地が10分の1に減少すると種数は半分に激減するが、逆に地球の半分の面積を健全な状態で確保し続ければ、地球上の全生物種の約85%を絶滅の危機から救うことができるという。彼は自らの若き日の数理業績を用いて、地球を救うための方程式を示したのだ。
すべての生命への愛(バイオフィリア)を遺して
2021年12月、92歳で惜しまれつつこの世を去ったE. O. ウィルソン。
右目の失明というハンディキャップから始まった彼の探究の旅は、足元の小さなアリの社会を精緻に観察することから始まり、人類の起源の探究、そして地球の未来を丸ごと包み込む壮大なビジョンへと繋がっていった。
彼が提唱した、人間には「他の生命形態と結びつきたい」という本能的な欲求があるとする「バイオフィリア(Biophilia:生命愛)」という概念は、今も世界中の環境活動家や科学者たちにインスピレーションを与え続けている。足元のアリに注がれた彼の温かな眼差しは、私たちが生きるこの青い地球のすべてを包み込んでいたのである。
エドワード・オズボーン・ウィルソン(1929–2021) アメリカの生物学者・自然主義者。ハーバード大学名誉教授。アリの社会行動とフェロモンによるコミュニケーションの研究で世界的な評価を確立。《社会生物学》(1975年)では人間行動の進化的基盤を論じ、大きな論争を巻き起こした。《人間の本性について》(1978年)および《アリ》(1990年)でそれぞれピューリッツァー賞を受賞。晩年は「ハーフ・アース」計画を提唱し、生物多様性の保護に尽力した。「バイオフィリア(生命愛)」の概念提唱者としても広く知られる。
本日の『日めくり天才伝』、私のYouTubeチャンネルの「双子チャンネル」として活動している友人・Rieさんも、また別の素晴らしい天才を紐解いています。どうぞ、こちらの物語もあわせてお楽しみください。
