『放課後のから騒ぎ』
谷口愛季は、距離の詰め方がうまい。
気づいたら隣にいる。
気づいたら話しかけられている。
気づいたら、こっちが変なことを言わされている。
だから放課後の教室で二人きりになった時、僕は少しだけ警戒した。
「○○くん」
谷口が、机に頬杖をついたまま呼んだ。
「何?」
「私のこと、好きでしょ」
「なんでそうなるの」
「目が合ったから」
「目が合っただけで?」
「うん。今の目は好きな人を見る目でした」
「判定が雑」
「でも当たってる?」
「外れてる」
「ほんとに?」
谷口はにこっと笑った。
こういう時の谷口は強い。
自分がかわいい顔をしていることを、たぶんちゃんと知っている。
そして、その顔で見つめられるとこっちが困ることも知っている。
僕は視線をそらした。
「ほら」
「何が」
「そらした」
「見続ける理由がないから」
「あるよ」
「何」
「私がかわいい」
「自分で言うな」
「違うの?」
「……違わないけど」
言ってから、教室の時計の音が急に大きく聞こえた。
谷口が固まっている。
いつもの勢いが止まった。
「え」
「え?」
「今の、何?」
「何って」
「違わないって言った?」
「言ったかも」
「かもじゃなくて言ったよ」
谷口は頬杖をやめて、まっすぐこちらを見た。
さっきまで人をからかっていたくせに、今は自分が照れている。
「○○くん、そういうこと言える人だったっけ」
「言わされたんだけど」
「私のせい?」
「九割」
「残り一割は?」
「本音」
谷口は口を開けたまま、何も言わなかった。
珍しい。
この人を黙らせることができたのは、たぶん初めてだった。
僕は少しだけ勝った気分になった。
でも、それも長くは続かなかった。
谷口は急に立ち上がって、僕の机の前まで来た。
「もう一回言って」
「何を」
「かわいいって」
「言ってない」
「違わないって言った」
「それは別」
「同じようなものです」
「かなり違う」
「じゃあ今言って」
「嫌だ」
「なんで」
「調子に乗るから」
谷口は胸に手を当てて、わざとらしく傷ついた顔をした。
「ひどい。私はそんなに単純な女の子じゃありません」
「さっき自分でかわいいって言ってたけど」
「それは事実確認」
「何の?」
「世界の」
「大きく出たな」
谷口は楽しそうに笑った。
教室には、もうほとんど人がいない。
黒板には消し残しの数式がうっすら残っていて、窓の外からは部活の声が聞こえる。夕方の光が机の上に長く伸びて、谷口の影も僕のノートの端に落ちていた。
「○○くんってさ」
谷口が言った。
「うん」
「いつから私のことかわいいと思ってたの?」
「思ってる前提で話すな」
「違うの?」
「……違わない」
「また言った」
「誘導尋問だろ」
「素直な証言です」
谷口はそう言って、僕の前の席に座った。
背もたれを抱えるようにして、こちらを見てくる。
近い。
いつもより近い。
「私はね」
「うん」
「結構前から、○○くんのこと気になってました」
あまりに普通の声で言われて、最初は意味が入ってこなかった。
「え?」
「気になってました」
「何を?」
「○○くんを」
「なんで?」
「なんでって」
谷口は少しだけ首を傾げた。
「私が話しかけると、いつも困った顔するから」
「それ、いい理由?」
「うん」
「困ってるんだけど」
「知ってる」
「知ってて話しかけてたの?」
「うん」
「性格悪いな」
「でも、嫌じゃなかったでしょ」
僕は答えられなかった。
嫌ではなかった。
谷口に話しかけられると、毎回少し疲れる。
会話の速度が速いし、こっちの逃げ道をすぐ塞ぐし、気づいたら変なことを言わされている。
でも、話しかけられない日は、少し物足りなかった。
廊下で谷口の声が聞こえると、自然とそちらを見ていた。
それを認めるのは、かなり恥ずかしい。
「○○くん」
「何」
「今、私のこと好きって顔してる」
「そればっかり」
「だってしてるもん」
「してない」
「してる」
「してない」
「じゃあ、聞きます」
谷口は少しだけ身を乗り出した。
「私のこと、好きですか」
逃げ道がなくなった。
いつものふざけた調子に見えるのに、目だけは真面目だった。
僕は、ここでごまかしたらたぶん後悔すると思った。
「好きです」
言うと、谷口は目を丸くした。
「……え」
「聞いたのそっちだけど」
「いや、聞いたけど」
「答えた」
「答えたね」
「うん」
「待って」
谷口は自分の頬を両手で押さえた。
「今の、私が照れる番じゃん」
「そうだね」
「何でそんな冷静なの」
「冷静じゃない」
「顔、普通だよ」
「心臓は全然普通じゃない」
谷口は少しだけ僕を見た。
それから、照れたように笑った。
さっきまでのからかう笑顔ではない。
本当に嬉しそうな顔だった。
それを見て、僕のほうが恥ずかしくなった。
「谷口は?」
僕が聞くと、彼女は急に背筋を伸ばした。
「私?」
「うん」
「私の返事?」
「そう」
「どうしようかな」
「さっき自分で気になってたって言ったじゃん」
「気になると好きは違うかもしれないし」
「急に慎重」
「だって、言ったら終わっちゃうじゃん」
「終わる?」
「からかえなくなる」
「いや、からかうだろ」
「たぶんね」
谷口は少し笑った。
それから、机の上に指で小さく円を描いた。
「好きです」
小さな声だった。
さっきまであれだけ大きく話していたのに、その一言だけは、夕方の教室に落ちるみたいに静かだった。
「もう一回」
僕が言うと、谷口はすぐに顔を上げた。
「調子に乗らないでください」
「乗ってる」
「認めた」
「嬉しいから」
谷口は口を閉じた。
また照れている。
本当にわかりやすい。
「愛季」
呼ぶと、彼女は少しだけ固まった。
「急に名前」
「だめ?」
「だめじゃないけど」
「じゃあ、愛季」
「二回言わなくていい」
「好きです」
谷口は机に突っ伏した。
「無理」
「何が」
「急に攻めないで」
「さっきまでそっちが攻めてた」
「攻められるのは慣れてないの」
「かわいい」
言ってしまった。
谷口がゆっくり顔を上げる。
頬が赤い。
「今、言った」
「言った」
「録音したかった」
「しなくていい」
「もう一回」
「調子に乗るから嫌だ」
「もう乗ってるから大丈夫」
「大丈夫じゃない」
谷口は笑った。
僕も笑った。
放課後の教室に、二人分の笑い声が少しだけ響いた。
その後、僕たちは一緒に帰ることになった。
昇降口で靴を履き替えていると、谷口が言った。
「じゃあ、明日から私のこと好きな人として扱います」
「何それ」
「優先的に帰り道を予約できます」
「予約したら?」
谷口が一瞬だけ止まる。
「……していいの?」
さっきまでの勢いが嘘みたいに弱い声だった。
僕は笑った。
「いいよ」
「じゃあ、明日」
「明日?」
「明日も一緒に帰る予約」
「承りました」
「軽い」
「でも本気」
谷口は少し満足そうに頷いた。
校門を出ると、夕方の風が吹いていた。
隣を歩く谷口は、いつもより少し静かだった。
「静かだね」
僕が言うと、彼女は前を向いたまま答えた。
「今しゃべると、変なこと言いそう」
「いつも言ってるけど」
「今日のは違う」
「どんな?」
「好きすぎるやつ」
僕は足を止めそうになった。
谷口は、してやったりという顔でこちらを見る。
「今、照れた」
「照れてない」
「照れた」
「照れてない」
「じゃあ、手つないでも照れない?」
「それは照れる」
「正直」
谷口は笑って、僕の手にそっと触れた。
からかう時みたいな勢いはなかった。
少し迷って、少し緊張して、それでもちゃんと握ってきた。
僕も握り返す。
彼女の手は思っていたより小さくて、少し温かかった。
「○○くん」
「何?」
「今日の私、かわいい?」
「うん」
「即答だ」
「好きな人なので」
谷口は、今度こそ黙った。
手に少しだけ力が入る。
「……明日も予約していい?」
「明日だけ?」
「じゃあ、明後日も」
「それだけ?」
「じゃあ」
谷口は、夕方の道で少しだけ僕を見上げた。
「しばらく全部」
「いいよ」
「軽い」
「でも本気」
谷口は笑った。
その笑顔は、いつもの明るい笑顔だった。
でも、手をつないでいるぶんだけ、少し近かった。
放課後のから騒ぎは、たぶん明日も続く。
ただ、今日からは少しだけ違う。
谷口愛季が僕をからかうたびに、僕はもう知っている。
その明るさの中に、ちゃんと僕のことを好きな気持ちが混ざっていることを。
