伊丹十三の30年前の予言 『スーパーの女』講演資料をいま読む
以前、noteに無職生活の中で松山を訪ね、伊丹十三記念館に行ったこと、その旅が、私にとって人生の再出発のきっかけになったことを書きました。

すると、その文章を読んでくださった作家・早乙女朋子さんから、思いがけず資料(7ページ)を送っていただきました。
1996年8月、映画『スーパーの女』公開後に行われた伊丹十三監督の小売業界向けの講演資料です。早乙女さんは、その講演で聞き手を務めていた方です。
これが、めちゃくちゃ面白かったのです。
伊丹さんは、スーパーについて語っています。けれど同時に、映画館についても語っています。日本映画についても語っています。小売業、顧客本位、システム化、プライベートブランド(PB)、そして日本の商売の閉鎖性についても語っています。
しかも、その言葉のいくつかは、30年近く経った現在から読むと、驚くほど予見的に見えます。もはや予言と言ってもいいかもしれません。
シネコンは本当に映画館を変えました。PBは小売の主役になりました。食品の透明性は制度になりました。そして、あらゆる業界が「お客さんを見ているのか」と問われる時代になりました。
では、伊丹さんは30年前に何を語っていたのでしょうか。
その言葉をいくつか引用しながら、現在と答え合わせをしてみたいと思います。
伊丹十三は「構造」を読み解く人でした
伊丹さんというと、風刺の人、観察の人、ユーモアの人という印象があります。
もちろん、それは間違っていません。けれど今回の講演資料を読んで、あらためて思ったことがあります。
伊丹さんは、構造を読み解く人だったのだと思います。
スーパーなら、売り場だけを見るのではありません。仕入れ、商品、表示、価格、従業員、客、競争、業界慣習。その全部をひとつの構造として見ています。
映画館なら、スクリーンだけを見るのではありません。興行、客席、サービス、アクセス、作品の選びやすさ、そして「お客さんにとってどうなのか」という視点まで含めて見ています。
伊丹さんの面白さは、その構造をただ批判するのではなく、面白がっているところにあります。
業界には強さがあります。長く続いてきた知恵があります。プロにしかわからない工夫があります。けれど同時に、弱さもあります。内輪の論理、客から見えないごまかし、変わらない慣習、外の声を聞かない鈍さ。
伊丹さんは、その強さと弱さの両方を見ていたのだと思います。
だから映画が説教になりません。告発だけにもなりません。構造の中にいる人間のおかしさ、したたかさ、弱さ、愛嬌まで含めて描くから、笑えるのです。
そして何より、切り口が面白い。
葬式を映画にする。税務調査を映画にする。スーパーを映画にする。普通なら「映画になりそうにない」と思われる題材を、伊丹十三は映画にしてしまいます。
なぜそれが斬新に見えるのか。
題材が奇抜だからではありません。構造の読み方が鋭いからです。
ふだん見慣れているはずのものを、まったく別の角度から見せる。知っているようで知らなかった世界として立ち上げる。そこに伊丹映画の新しさがあります。
講演資料の中で、伊丹さんは脚本についてこう語っています。
「映画というのは、脚本が一番大事ですね。脚本は設計図であり」
この言葉も、いま読むとよくわかります。
伊丹さんは、映画を設計する人でした。何を見せるのか。誰に語らせるのか。どの順番で観客に理解させるのか。どこで笑わせ、どこで怒らせ、どこで納得させるのか。
その設計図の中に、業界の構造が組み込まれていました。
だから『スーパーの女』も、単なるスーパー再建コメディではありません。客からは見えにくい小売の裏側を、観客に見える形にした映画でした。
予言その1 シネコンは本当に映画館を変えました
講演資料で特に面白かったのは、スーパーの話から映画館の話へ、かなり自然に移っていくところです。
早乙女さんが、シネマコンプレックスはスーパーマーケットに似ているのではないかと問いかけます。すると伊丹さんは、こう答えます。
「スーパーマーケットに非常に考え方が似てますね。つまりお客様本位であると。」
さらに、こうも語っています。
「要するにユーザーの利益のために我々はシネマコンプレックスを作るんだと、いうことですね。」
ここで伊丹さんが見ていたのは、単に新しい映画館の形ではなかったと思います。
シネコンを、スーパーと同じく、顧客本位、利便性、品ぞろえ、システム化によって成り立つサービス業として見ていたのです。
1996年当時、日本の映画館はまだ現在ほどシネコン化していませんでした。街の映画館、単館、古い興行の仕組みが残っていた時代です。
そこへ、複数のスクリーンを持ち、駐車場や商業施設と結びつき、時間を選びやすく、座席も快適なシネコンが入ってきました。
現在の数字を見ると、この見立てはほとんど答え合わせ済みと言っていいと思います。1996年の日本のスクリーン数は1,828でした。それが2025年には3,697まで増えています。しかも、そのうちシネコンは3,305スクリーンです。
映画館は、ほぼシネコンの時代になりました。
いまでは、オンライン予約、座席指定、会員アプリ、ポイント、フード、音響、プレミアムシート、上映時間の細分化が当たり前になっています。
映画館は、映画を上映するだけの場所ではなく、映画体験を設計する場所になりました。伊丹さんが見ていたのは、映画館の設備更新だけではありません。映画館の考え方そのものが、業界本位から顧客本位へ変わることだったのだと思います。
予言その2 日本映画への危機感
一方で、日本映画に対する見方はかなり厳しいものでした。
講演資料の中で、伊丹さんはこう語っています。
「日本映画の将来はね、私は非常に暗いと思ってますね。」
かなり強い言葉です。
もちろん、現在から見ると、日本映画は単純に「暗い」とは言えません。興行面では、むしろ邦画は大きな存在感を持っています。2025年の映画興行収入を見ると、邦画のシェアは75.6%に達しています。
ただし、伊丹さんが問題にしていたのは、単に邦画の売上ではありませんでした。
彼が問題にしていたのは、作り手が客を見ているかどうかです。
こうも語っています。
「日本映画を作る作り手達は、お客さんのことを何も考えないで作ってます。」
これも辛辣です。
けれど、この言葉は、いま読むと単なる日本映画批判には見えません。むしろ、あらゆる業界に向けられた問いに聞こえます。
作り手は、客を見ているのか。業界の内側の論理だけで動いていないか。自分たちの都合を、観客や消費者に押しつけていないか。
伊丹さんは、映画を芸術としてだけでなく、観客との関係の中で見ていました。
商売として映画を見るというのは、金もうけだけを考えるという意味ではありません。相手がいることを忘れない、ということです。
この問いは、映画館だけでなく、配信サービス、テレビ、出版、メディアにも刺さります。
あなたたちは、誰に向けて作っているのか。
予言その3 PBは小売の主役になりました
講演資料の冒頭で、伊丹さんは『スーパーの女』公開後のスーパー業界の反応について語っています。
その中に、プライベートブランドをめぐる面白い発言があります。
公開直後の新聞広告に触れながら、ダイエーの中内功氏が自らを「PB大魔王」と名乗っていた、と紹介しています。
「その広告の中で自ら『PB大魔王』と名乗っておられました」
そして、それを「映画の一つの副次的な効果であったかな」と語っています。
ここは、いま読むとかなり面白いところです。
『スーパーの女』が公開された1996年当時、PBという言葉は、いまほど一般の生活者に浸透していなかったと思います。プライベートブランドは、小売業界の中では重要なテーマであっても、消費者にとってはまだ「安い代替品」くらいの受け止め方だったのではないでしょうか。
しかし伊丹さんは、そこに反応していました。
しかも、PBを単に商品の話としてではなく、スーパーという業態の主導権の問題として見ていたように思います。
ナショナルブランドの商品を仕入れて並べるだけなら、小売は売り場を貸している存在に近くなります。けれどPBを持つということは、小売が自分たちで商品を企画し、品質を決め、価格を決め、売り場で育てるということです。
つまりPBは、小売がメーカーに対して主導権を持つための武器でもあります。
現在の状況を見ると、この変化ははっきりしています。
たとえばセブンプレミアムは、2007年に49品目で始まり、2024年度には年間売上1兆5,000億円を突破しました。もはやPBは脇役ではありません。小売のブランドそのものです。
「PB大魔王」という言葉は、当時は少し冗談めいた業界リアクションだったのかもしれません。
けれど30年近く経った現在から見ると、PBは本当に小売の主役になりました。
スーパーとは、単に商品を並べる場所ではありません。客が何を求めているかを観察し、商品を作り、価格を決め、売り方を設計する場所です。
つまり、スーパーは流通業であると同時に、情報産業であり、商品開発産業でもあります。
『スーパーの女』は、そうした小売の主導権の変化を、かなり早い段階で映画の中に取り込んでいたように見えます。
予言その4 食品の透明性は制度になりました
『スーパーの女』で描かれるスーパーの世界には、客から見えないごまかしがあります。
古い商品をどう扱うか。表示をどうするか。衛生をどう守るか。売り場の裏で何が起きているのか。そうした問題を、伊丹さんは重苦しい告発ではなく、笑える場面として描きました。
ただ、30年後の現在から見ると、これはかなり重要なテーマでした。
食品表示制度はその後、整備されていきました。新たな食品表示制度は2020年に完全施行され、食品衛生の面でも2021年から原則としてすべての食品等事業者にHACCP(Hazard Analysis and Critical Control Point=ハサップ、危害要因分析・重要管理点)に沿った衛生管理が求められるようになりました。
HACCPとは、どの工程で危険が起きるかをあらかじめ洗い出し、特に重要な工程を管理・記録する食品衛生の考え方です。つまり、食品の安全を「現場の勘」だけに任せるのではなく、手順と記録によって見える化する仕組みです。
制度ができたからといって、問題がすべて消えるわけではありません。
けれど、少なくとも食品をめぐる世界は、「客には見えないから仕方ない」では済まされない方向へ進みました。
表示すること。記録すること。説明できること。ルールに沿って管理すること。
伊丹さんが映画の中で笑いにしたものは、やがてコンプライアンスの問題になりました。
これも、伊丹さんが未来を言い当てたというより、構造を見ていたからだと思います。
客から見えない場所に、ごまかしの余地がある。そこに生活者の目が入り、制度が入り、透明性が求められるようになる。
その流れを、伊丹さんは映画の題材としてつかんでいたのだと思います。
なぜスーパーを映画にしたのか
では、なぜスーパーを映画にしたのでしょうか。
講演の終盤で、早乙女さんは「どこにでもある地味で平凡で日常的なビジネスであるスーパーマーケットを、なぜ映画にまでしてみようと思われたのでしょうか」と尋ねています。
それに対して、伊丹さんはこう答えます。
「風穴を開けるような、新しいビジネスの王道を指し示してるんじゃないかな」
ここは、この講演資料の核心だと思います。
スーパーを地味な題材として選んだのではありません。むしろ、そこに日本の商売を変える可能性を見ていました。
スーパーは、お客様本位であり、競争原理の上に立ち、システム化され、マニュアル化され、教育を受ければ誰でも参加できる。
これは単なる小売業への賛美ではありません。閉じた業界に風穴を開けるものとして、スーパーを見ていたのだと思います。
ここにも、伊丹さんらしい切り口の面白さがあります。
スーパーは、誰にとっても身近です。あまりにも日常的です。だからこそ、普通は映画の題材になりにくいと思われる。
けれど伊丹さんは、そこに構造を見ました。
商品を売る場所ではなく、社会の変化が現れる場所としてスーパーを見たのです。
だから『スーパーの女』は、スーパーの映画でありながら、スーパーだけの映画ではなくなりました。
日本の商売は、外のお客さんを見ていたか
講演資料の終盤には、さらに重要な発言があります。
伊丹さんは、日本の商売についてこう語ります。
「外のお客さんというものの都合を一回も聞かれることなく、商売を続けてきたのが日本の商売であったわけです。」
これは、かなり大きな射程を持つ言葉です。
スーパーの話をしていたはずなのに、いつの間にか日本の商売全体の話になっています。伊丹さんの面白さは、ここにあります。
彼は個別の業界を描きながら、その奥にある日本社会の構造を見ていました。
業界の中では、それぞれの論理があります。映画界には映画界の論理があり、小売には小売の論理があり、医療には医療の論理があり、葬儀には葬儀の論理があります。そこには専門性もあります。歴史もあります。
けれど、その論理が強くなりすぎると、外にいる客や生活者の存在が消えます。
伊丹さんは、その状態に敏感でした。さらに彼は、こう問いかけます。
「一体こんな無法なことがいつまでも許されていいものかどうか。」
この「無法」という言葉は強いです。
けれど、伊丹さんの怒りはよくわかります。客の都合を聞かず、業界内の慣習だけで商売を続ける。それが長く許されてきたこと自体がおかしいのではないか。
『スーパーの女』は、その問いを娯楽映画の形で投げかけた作品だったのだと思います。
伊丹十三の予想を超えた未来
もちろん、伊丹さんがすべてを見通していたわけではありません。
シネコンという変化を見ていたとしても、その後に来る配信の時代までは、さすがに想像しきれなかったのではないでしょうか。
いまや映画の流通は、映画館だけでは完結しません。Netflix、Amazon Prime Video、U-NEXT、Disney+。映画や映像作品は、劇場の外でも大量に見られています。
国内の動画配信市場は、2025年に推計6,740億円規模まで伸びたとされています。
シネコンが映画館を変えたのだとすれば、配信は映画館の外側から映像体験そのものを変えました。
もし伊丹さんがいま生きていたら、配信の時代をどう見たでしょうか。
映画館の女か。配信の女か。あるいは、アルゴリズムの女か。
たぶん彼は、そこにも業界のクセを見つけたはずです。ランキング、レコメンド、視聴データ、独占配信、サブスクリプション、作品の作られ方の変化。いくらでも映画にできそうな材料があります。
もうひとつ、現在から見ると気になることがあります。
伊丹さんのスーパー観には、かなり明るいところがあります。教育され、システム化され、顧客本位になっていく場所として、スーパーが語られています。
ただ現在の小売の現場は、明るい話ばかりではありません。人手不足、物流費、賃上げ、価格転嫁、惣菜や生鮮の負荷、カスハラ、地域の高齢化。
合理化とシステム化は進みましたが、そのシステムを支える現場には大きな負担もかかっています。
ここは、伊丹さんが生きていたら、きっと見逃さなかったと思います。
伊丹さんは、構造の強さだけを見る人ではありません。構造の弱さも見る人です。その歪みやきしみも、きっと面白がりながら、しかし鋭く描いたのではないでしょうか。
30年前の予言を検証する意味
もちろん、伊丹さんは預言者ではありません。
未来を神秘的に言い当てたわけではありません。そうではなく、目の前の業界をしつこく観察していたのだと思います。観察が深かったから、その業界がどちらへ動くのかが少し早く見えていた。
予言とは、実はそういうものなのかもしれません。
未来を見る力ではなく、現在をよく見る力。
現在をよく見る人には、未来が少しだけ早く見える。
今回、早乙女さんから送っていただいた講演資料を読みながら、何度も不思議な気持ちになりました。
1996年の資料ですが、そこに書かれている問題意識は、いまの私たちの暮らしや産業にもつながっています。
シネコン化。PBの拡大。顧客本位。食品の透明性。業界の閉鎖性。映画産業の変化。
伊丹さんの発言が古びていないように、映画もまた古びていないのだと思います。
社会の表面は変わりました。スーパーも映画館も、30年前とはずいぶん違います。けれど、業界の構造、内側の論理、客との関係、変わるものと変わらないものを見つめる伊丹さんの視線は、いま見ても有効です。
伊丹十三の映画がいまも面白いのは、単に懐かしいからではありません。
構造を読む視点が、まだ生きているからです。
世界を面白がる人
無職生活の中で伊丹十三記念館を訪ねたとき、私が励まされたのは、たぶんそこだったのだと思います。
伊丹十三は、世界を面白がる人でした。
料理も、言葉も、映画も、商売も、制度も、人間の見栄も、業界の変な慣習も、全部まとめて面白がる。世の中を斜めに見るのではなく、近づいて、よく見て、仕組みをつかみ、それを笑いに変える。
仕事を失って、自分の人生が少し止まってしまったように感じていた時期に、その態度は大きかったのだと思います。
世界はまだ見るに値する。面白がるに値する。書くに値する。
そう思わせてくれました。
伊丹十三は、過去の名監督ではありません。
いまの小売を考えるためにも、映画館を考えるためにも、配信時代の映像産業を考えるためにも、そして閉じた業界がどう開かれていくのかを考えるためにも、まだ十分に読む価値のある作家です。
『スーパーの女』は、スーパーの映画ではなかったのかもしれません。
それは、業界が顧客によって開かれていく映画でした。
30年前の講演資料は、そのことをいま改めて教えてくれます。
参考資料
・『1996年8月度トップ経営研修会(伊丹十三監督・早乙女朋子さん)』資料
・一般社団法人日本映画製作者連盟「日本映画産業統計」「全国スクリーン数」
・株式会社セブン&アイ・ホールディングス「セブンプレミアム」発表資料
・消費者庁「新たな食品表示制度の完全施行について」
・厚生労働省「HACCPに沿った衛生管理の制度化について」
・GEM Partners「動画配信(VOD)市場規模推計」
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