致死量の毒を盛った犯人が2人。被害者は死亡。それでも「殺人罪」にならないことがある?
1.クエスチョン:犯人が2人いる毒殺事件
推理小説やミステリードラマで、たまに見かける展開があります。被害者を恨む人物が実は2人いて、それぞれがまったく別々に、同じ被害者の飲み物に毒を入れていた——という設定です。
今回考えるのは、2人がそれぞれ「それだけで人が死ぬ量(致死量)」の毒を盛り、被害者が亡くなったケースです。
犯人が1人なら、話は簡単です。殺すつもりで毒を盛り、被害者が亡くなったのですから、殺人罪です。では犯人が2人いたら、罪はどうなるのでしょうか。2人とも殺人罪? それとも、どちらか一方だけ?
直感的には「2人とも殺人罪に決まっている」と思えます。ところが法律の理屈を突き詰めると、意外な結論が待っています。
2.関連する法律:刑法199条と「疑わしきは被告人の利益に」
まず基本となるのは、殺人罪を定めた刑法第199条です。
刑法第199条 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の拘禁刑に処する。
そして、殺そうとしたが死の結果に至らなかった場合や、死の結果が自分の行為から生じたとはいえない場合は、刑法第203条により殺人未遂罪となります。
ここで重要になるポイントが2つあります。
1つ目は「共同正犯(=2人以上が共同して犯罪を実行した場合、全員を正犯として扱う仕組み)」です。刑法第60条が定めており、これが成立するには、犯人同士の間に意思の連絡(=一緒にやろうという意思のやりとり)が必要とされています。2人がグルなら、どちらの毒で死んだかを問わず、2人とも殺人罪の共同正犯です。
2つ目は、グルではなかった場合、つまり2人がお互いを知らず、たまたま同じ日に毒を盛っていた場合です。このとき各犯人の罪を考えるうえで効いてくるのが、殺人罪の成立には「その人の行為が死の結果を引き起こした」という因果関係(=行為と結果のつながり)が必要だ、という原則です。
そして刑事裁判には、「疑わしきは被告人の利益に」という大原則があります。犯罪事実の証明は検察官の仕事であり、証明しきれない事実については、被告人に有利な方向で認定しなければならない、というルールです。
司法解剖などでどちらの毒が死因かが特定できればよいのですが、特定できなかった場合、この原則が思わぬ働き方をします。犯人Aの裁判では「被害者はBの毒で死んだ可能性が否定できない」とAに有利に認定され、犯人Bの裁判ではその逆の認定がされるのです。
3.つまりどういうこと?
冒頭の問いに答えると、結論は次の3パターンに分かれます。
・2人がグル(意思の連絡あり)の場合:共同正犯として、2人とも殺人罪が成立します。
・グルではないが、どちらの毒が死因か特定できた場合:死因となった毒を盛った犯人は殺人罪、もう1人は殺人未遂罪です。
・グルではなく、どちらの毒が死因かも特定できない場合:なんと、2人とも殺人未遂罪にとどまります。
3つ目のパターンが、今回の「びっくり論点」です。2人とも殺すつもりで致死量の毒を盛り、被害者は現に亡くなっている。それなのに、どちらの裁判でも「死の結果はもう一方の毒によるものかもしれない」と被告人有利に認定される結果、誰も殺人罪(既遂)にならないのです。
被害者が死んでいるのに殺人既遂犯がいない、というのは直感に強く反します。しかし、証明できない事実で人を重く処罰しないというのは、刑事裁判の土台となるルールであり、ここを曲げるわけにはいきません。
なお、殺人未遂罪といっても法定刑は殺人罪と同じ枠であり(未遂による減軽は裁判所の裁量です)、死刑まで含まれます。「未遂止まり」といっても、処罰として軽すぎて不当、とまでは言えない点は付け加えておきます。
4.応用編:択一的競合
ここから先は少し専門的な話です。本編の結論はここまでで完結しているので、興味のある方だけどうぞ。
このケース、刑法学では「択一的競合」と呼ばれる有名な論点で、実は本編で書いた以上にやっかいな理論問題を抱えています。
(1)条件説のパラドックス
因果関係の判断の出発点は、条件説(=「その行為がなかったら、その結果もなかった」といえるかで因果関係を判断する考え方)です。ところがこの公式を素直に当てはめると、おかしなことが起きます。
Aの毒盛り行為を取り除いて考えても、被害者はBの致死量の毒で死んでいた。Bの行為を取り除いても、Aの毒で死んでいた。つまりどちらの行為についても「その行為がなくても結果は発生した」ことになり、理屈のうえでは、死因が特定できた場合ですら両者の因果関係が否定されかねないのです。
これに対しては、この場面に限って両方の行為を一括して取り除いて判断する見解(修正条件説)や、仮定の消去法ではなく「現実にどの毒が体内で作用して死をもたらしたか」で判断する見解(合法則的条件説)が主張されていますが、いずれにも批判があり、争いのある論点です。後者の立場に立てば、死因が特定できれば因果関係を認められ、特定できなければ「疑わしきは被告人の利益に」で両者未遂、という本編の結論に落ち着きます。
(2)同時傷害の特例では救えない
刑法第207条は、意思の連絡なく暴行した複数人のうち、誰の暴行で傷害が生じたか不明な場合に、例外的に共犯として扱う規定です。判例は傷害致死への適用まで認めていますが(最決平成28年3月24日)、条文が「傷害」と明示している以上、殺人罪への適用は罪刑法定主義(=法律の定めなしに処罰してはならないという原則)に反し、認められないと考えます。
(3)「危険の現実化」でも救えない
近時の判例は、因果関係の判断に「行為の危険が結果に現実化したか」という枠組みを用いています。有名なのが、人を車のトランクに閉じ込めていたところ、停車中に後続車に追突されて被害者が死亡した事案で、監禁行為自体の危険が結果に現実化したとして因果関係を認めたものです(最決平成18年3月27日)。
「毒を盛る行為には死をもたらす現実的な危険があるのだから、この理論で2人とも殺人既遂にできるのでは」とも思えます。しかしこの枠組みは、現実に存在する因果の流れを前提に、それを行為者の責任として評価してよいかを判断する道具です。そもそも「Aの毒が現実に体内で作用したのか」という事実自体が証明できない場面では、埋め合わせになりません。
もし「危険な行為をした+被害者が死んだ」だけで既遂を認めてよいなら、極端な話、Aが毒を盛った直後、被害者が飲む前に無関係のBが射殺した場合でもAが殺人既遂になってしまい、未遂と既遂の区別が崩壊します。既遂に必要な「その行為が結果を現実に引き起こした」という部分は、規範的な評価では代替できない事実認定の領域であり、まさに「疑わしきは被告人の利益に」が支配する場面なのです。
処罰感情としては「2人とも殺人罪」が正しく感じられるのに、理論に誠実であろうとすると「2人とも未遂」に落ちる。この居心地の悪さこそ、択一的競合が刑法の教科書の定番論点であり続ける理由なのだと思います。
※本記事は一般の法務部員Fの個人的見解です。なるべく正確な内容になるよう検討を行ってはおりますが、あくまでも一個人が趣味で行った検討であるため、こういう見解もあるのだと広い心でお読みください。記事の内容につき異論は認めます。個別のトラブルでお困りの場合は、弁護士等の専門家にご相談ください。
