【エッセイ】明日を数える
── 四十歳を超えると九蓮宝燈が怖い
いつの日からか、明日があと何回くるかと数えることがクセになっている。
私たちの遺伝子に書き込まれた自然寿命は三十八歳と言われてる。
実際、死亡率も四十歳前後で急激に増加する。四十代の私が明日死ぬ確率は、だいたい10万〜20万分の1。九蓮宝燈を天和で和了するのとほぼ同じ。
私の肉体は、もはや、生きてるというより、死んでいってるわけだ。
日本の平均年齢が八十歳を超えていても、自分がそこまで生きられるとは限らず、明日死ぬかもしれない。
毎日、七個のサイコロをふって、全ゾロ目が出たら死ぬ。もはや「おまけ」人生。
だから、私の明日はあと何日あるんだろう?何回桜を観ることができるんだろう?何回、子供と海に行けるんだろう?毎日、数えている。
でも、死因はランダムにやってくる。毎日タバコとコーラでも一〇〇歳生きれるかもしれないし、どれだけ健康に気を使っていても不慮の事故に遭うかもしれない。
明日は来るかもしれないし来ないかもしれない。
自分のための人生には、もう意味も目的も持てない。いかに生きるかよりも、いかに死ぬかを考えてしまう。
少なくとも、来ないかも知れない将来のために頑張る気にはなれない。でも、来るかもしれないから、備えなければならない。
明日の数なんて、ほんとうは分からない。怖い。
だから社会に頼りたくなる。
年金制度の賦課方式は、個人にはこの不安の軽減に、社会には回らない貯蓄を減らす経済効果があり、本来は素晴らしい制度だったのだ。
人口が維持され、公平に運用されていれば。
あれ?何の話してたっけ?
ひらがなひめか
