【大欅の向こう側へ】サイレンススズカと、57秒4の夢 Re:write
※本作は実際の競走と記録をもとにしたフィクションです。
人物および一部の描写は創作です。
※本作は最初期に描いた物を、ほぼゼロベースから書き直した物です。
【序章:風の中の少女】
秋の東京競馬場に一人の少女がいた。
パドックの柵の外。
スタンドのいちばん端。
人がまばらになった、夕暮れの舗道。
誰も彼女を見ることはできない。
肩がぶつかることも、
席を空けられることもない。
声も上げない。話さない。
ただ、見ている。
1998年11月1日。
22歳の男が、初めて
「本物」の速さに出会った日。
栗毛の馬体に釘付けになった男の、
少し後ろで。
少女もまた、同じ馬を見つめていた。
2022年10月30日。
46歳になった男が、
24年ぶりの続きを待った日。
少女は、あの日と同じ背丈で同じ秋の風の中に立っている。
髪の長さも、巻いたスカーフの結び目も、何ひとつ変わっていない。
男は彼女に気づかない。
一度も振り返らない。
それでいい。
少女の持っているものは。
3コーナーの脇に立つ、一本の大欅の魂。
その陰に呑まれた夢が、24年かけてもう一度走り出す瞬間。
彼女はそこにいる。
風に髪をなびかせて。
それをあなたと、同じ場所から見るために。
(挿し絵の少女は、作中における読者様のアバターとしてご覧頂ければ幸いです)

【①:初めての本物】
秋の空は、どうしてこんなに高いんだろう。
1998年11月1日、朝。
22歳の俺は、府中本町の改札を出た。
競馬が初めてってわけじゃない。
地元の場外馬券売り場なら、友達に連れられて何度か行っている。
でも、G1を現地で見るのは今日が初めてだ。
改札の外にはもう人の波ができている。
くたびれたおっさんも、同世代のカップルも、みんな同じ方向へ流れていく。
(スーパーのタイムセールかよ)
なんて冷めたことを思いつつ、俺の足もやたら速い。
入場門をくぐると、芝と土の混ざった匂いが鼻を突く。
そしてパドックで、
俺は初めて「本物」を見た。
栗毛の馬体が、秋の日差しの中でひときわ光っている。
サイレンススズカ。
圧倒的な逃げで連勝街道を突っ走っている馬。
新聞で読んで知ってはいた。
でも、目の前にいるそいつは、活字なんかより百倍雄弁だ。
小柄で、それでいてバネを全部詰め込んだみたいな体。
なにより目つきが違う。
人の群れを警戒するような、神経質な光。
(こいつ、自分がどれだけ速いか、自分でわかってるな)
なんとなく、そう思う。
というより、こっちが勝手にそう思わされる。
そういう圧が柵の向こうから飛んでくるのだ。

武豊が跨ると、スタンドから歓声が上がる。
朝のスポーツ紙には彼の言葉が載っていた。
「今回もオーバーペースで逃げます」
冗談みたいだけど、たぶん一ミリも冗談じゃない。単勝オッズは1.2倍。
誰ひとり、この馬が負けるとは思っていない。
俺は迷わず単勝を買った。
財布のなけなしの10000円が増えたら明日の飯が少し豪華になる。
そんな下心も、まあ、ある。
でも本音を言えば違う。
(この馬がゴールを駆け抜けるところを、この目で見たいだけだ)

【②:57秒4というタイム】
午後3時35分。
スタンドは、10万をはるかに超える観客で埋め尽くされている。
天皇賞のゲートが、開く。
1番枠から飛び出したその瞬間、
俺にはもうわかった。
速い。
いや、ただ速いんじゃない。
他の馬が必死に走っているのに、一頭だけ飛んでいる。
普通、逃げ馬は序盤に飛ばしたら息を入れる。
なのにこいつは、逆にどんどん加速していくのだ。
差が開く。開いていく。
2コーナーを抜けきる頃には、後続と10馬身近い差だ。スタンドが笑いともどよめきともつかない声を漏らしている。
非現実的すぎて、みんな処理が追いつかないのだ。
実況が1000m通過を告げる。
「57秒4!」
その瞬間、スタンドがどよめきに包まれる。
俺は立ち上がって身を乗り出す。
前の人の背中に肩がぶつかっても構わない。
自分が叫んでいることにすら、気づいていなかった。
競馬の常識で言えば、これは狂気の数字だ。
こんなペースで飛ばして、最後まで持つわけがない。
(でもこいつなら、持つんじゃないか)
そう思わせる何かが、あの背中にはある。
(俺は今、とんでもないものを見てるんじゃないか)
心臓の鼓動ががバカみたいに速い。
息の吸い方を忘れている。
3コーナー。
コースのすぐ脇に、樹齢を重ねた一本の大欅が立っている。馬たちはその陰をくぐって4コーナーへ向かう。
俺のいる場所からは、先頭のサイレンススズカが、一瞬、大欅の向こうへ消えて見える。
みんな待っている。
すぐに、あの木の陰から軽やかに現れる姿を。
そのままゴールへ突き抜けていく、約束された次のシーンを。
でも。
大欅の向こうから出てきたその馬は、明らかにおかしかった。
スピードが落ちている。
(え)
(うそだろ。錯覚だよな。目の錯覚だ)
(頼むから、錯覚であってくれ)
いや、錯覚じゃない。
武豊が異変を察し、馬を止める。
サイレンススズカは左前脚をかばいながら、4コーナーの外側へ誘導されていく。
スタンドが、静まる。
十数万の人間がいっせいに息を呑む音がしたような気がした。。
テレビの電源コードを誰かが足で引っ掛けて、映像がブツッと切れたときみたいな静けさ。
不自然で、暴力的な無音。
(さっきまで、あんなに沸いてたのに)
熱が、一瞬で凍りついている。
そのあとレースがどう決着したのか、俺はほとんど覚えていない。
視線は、コースの外でぽつんと立ち止まっている栗毛にずっと固定されたままだった。
府中本町の駅まで歩く間、一言も声が出ない。
同じように黙って歩く人の群れに紛れて、足だけを機械みたいに動かし続ける。
秋の日は短い。空はもう暮れかけている。
(べつに泣いてない。泣いてないから)
たしかに涙は出ていない。
ショックがデカすぎて、感情の回路がどこかでショートしているだけだ。
(あんなに速かったのに)
(あんなに、綺麗だったのに)
◇
馬は、こんなに速くて、こんなに美しくて。
そして紙細工みたいに脆い。
22歳の俺の中に、その事実が焼き付いてしまう。それでも俺は競馬を見続ける。
やめられるわけがない。
あんなものを見てしまったのだから。
秋が来るたび、俺は大欅を思い出す。
あの木の向こうから、サイレンススズカが無事に飛び出してくる光景。

夢の中で、何度も何度も見る。
でも夢はいつも途中で終わってしまうのだ。
スローモーションで失速していく栗毛の背中と一緒に、ふっと。
(頼む、今日こそ最後まで走ってくれ)
そう念じながら見ているのに、毎回そこで目が覚める。
【③:24年後の胸騒ぎ】
人間、24年もあればずいぶん変わる。
22歳だった俺は、もう46歳になっている。
結婚して、子どもが生まれて、それなりの役職がついて、親が病気になって。
雨の日は膝が痛むし、徹夜なんて絶対に無理。
ごく普通の、ちょっとくたびれた毎日。
(若い頃に思い描いてた46歳とは、だいぶ違うな)
でも、それはそれで悪くない。
悪くないと思えるようになったこと自体が、たぶん歳を取るということだ。
それでも競馬だけは続けている。
(これだけが、あの日の俺と今の俺をつないでる糸なんだよな)
細くて、しぶとい糸。
◇
そして、2022年10月30日、朝。
目を覚ました瞬間から、妙な胸騒ぎがある。
今日は天皇賞・秋。
出走馬に、パンサラッサという名前がある。
大逃げで知られる馬だ。
前日のスポーツ紙に、調教師のコメントが載っていた。
「57秒台で行って59秒台で上がれば勝てる計算です」
57秒台で、行く。
その数字が、脳の底に沈んでいた泥のような物を、ぐるりとかき混ぜる。
(おい。それは)
(それは、あの日のあの数字だぞ)
指先が、少し冷たくなっている。
(今日、府中に行こう)
決意は唐突で、迷いはゼロだった。
「今日、夕飯は?」
「いらない。ちょっと昔の知り合いに会ってくるから」
嘘じゃない。
会いに行く相手が人間じゃないうえに、24年前に死んでいるだけの話だ。
◇
府中本町の改札を出ると、24年前と同じ人の波がある。

ただ、それを眺める自分の目が違う。
24年分の安っぽい悲喜こもごもを通ってきた、濁った目。
パドックで、パンサラッサを見る。
鹿毛が、秋の日差しの中で光っている。
背丈も色も造形も、あの馬とは全然違う。
別の馬だ。当たり前だけど。
なのに。
(似てるんだよな、なんか。どこがとは言えないけど)
先頭の景色しか知らない者だけが持つ、孤独と矜持みたいなもの。
それが目の奥にある気がしてならない。
(いや、俺が勝手に重ねてるだけか)
たぶんそうだ。
それでも、目が離せない。
鞍上は吉田豊。
24年前のあの日、同じレースを走っていた騎手の一人だ。
あの悲劇を、いちばん近くで見ていたひとり。
名前まで同じだ。
偶然か、そうじゃないのか。
どっちでもいい。
(今日のレースは、俺にとって特別だ)
それだけは、はっきりしている。
【④:大欅の向こうから】
午後3時40分、発走。
パンサラッサが飛び出す。
並びかけようとする馬を一瞬で振り切って、先頭。向正面に入ると、後続との差がぐんぐん開いていく。
中団にイクイノックスという3歳馬がいる。
天才、という異名を持つ実力馬だ。
そんなもの、俺の視界には入っていないが。
「逃げるぞ!」
「差が開いてく!」
ざわめくスタンドの片隅で、俺は柵を握りしめている。
手のひらがじっとり湿っている。
心臓が、自分でも引くくらいドッドッと鳴っている。
実家の古い洗濯機みたいだ。
46歳の不健康な心臓が、
22歳の頃みたいに暴れている。
実況が叫ぶ。
「1000m通過、57秒4という超ハイペース!」
その瞬間、全身が24年前に引き戻される。
同じ数字。同じ場所。同じ秋の空。
コンマ1秒まで、あの日とぴったり同じラップ。
(なんでだよ)
(なんで、そこまで同じなんだよ)
歓声に包まれたスタンドの中で、俺だけが別の感情に殴られている。
(頼む)
言葉にならない祈りが、腹の底からドロドロ湧いてくる。
(頼む、頼む、頼む。怪我するな。脚を傷めるな。ただ走り抜けてくれ)
(勝たなくていい。負けてもいい)
(大欅の向こうから、無事に出てきてくれ!)
パンサラッサが3コーナーに差しかかる。
後続との差は15馬身以上に見える。
まるで別のレースを走っているみたいな、孤独な逃走。

大欅が近づいてくる。
視野が、その巨木だけに絞られる。
24年間、夢の中で何度も見てきたあの木。
栗毛の馬体が呑み込まれて、そのまま失速していったあの記憶。
俺のいる場所からは、パンサラッサが一瞬、大欅の陰に消えて見える。
一秒。
二秒。
三秒。
スタンドが静まったのか、自分の耳が塞がったのか、もうわからない。
時間の感覚が、どこかへ飛んでいく。
(出てこい)
(頼む、出てこい)
そして。
パンサラッサが、大欅の向こうから現れる。
全力で、走っている。
(走ってる)
(走ってる……!)
膝から力が抜けそうになる。
声にならない吐息が漏れて、そのまま息が続かなかった。
脚は止まっていない。
止まっていないのだ。
隣のおっさんが「来た! 来た! まだ先頭だ!」と子どもみたいに叫んでいる。
(そうだよ。来たんだよ)
(24年ぶりに、来たんだよ)
4コーナーを回って、最後の直線。
リードはまだ10馬身以上。
吉田豊が必死に手綱をしごき、パンサラッサは先頭を走り続ける。
【⑤:天才の一撃】
残り400m。
それでもリードは絶望的なほど開いている。
その時だった。
中団から一頭、ロケットでも積んでるみたいな、頭のおかしいスピードで飛んでくる馬がいる。
イクイノックス。
残り300m。
大外から、とんでもない脚で追ってくる。
それでもパンサラッサは、まだ前にいる。
脚色は明らかに鈍っている。
それでも首を下げて、最後の一滴まで絞り出して走り続けている。
スタンドの声援が、熱狂を超えて祈りに変わる。
「パンサラッサ!」
「逃げろ!」
「頑張れーッ!」
俺も叫んでいる。
周りの目なんて、一ミリも気にならない。
(走り切ってくれ。それだけでいい)
(24年前に見られなかったものを、今日こそ見せてくれ)
(あの数字は、死の宣告なんかじゃないって、証明してくれ)
残り20mあるかどうか。
イクイノックスが、パンサラッサの首を完全にとらえる。
実況が絶叫する。
「大外からイクイノックス! 届くのか! 届いたあああ!最後は天才の一撃!」

1着、イクイノックス。
2着、パンサラッサ。
スタンドが歓声に揺れる。
悔しいはずだった。
けれど、不思議なほど悔しくない。
パンサラッサは、走ったままゴール板を越えた。
(走り切った)
(最後まで、自分の脚で)
それだけで、俺が24年間待っていた結末は、もう届いている。
馬券がどうとか、着順がどうとか、そんなものは頭のどこにもない。
地鳴りみたいな歓声と拍手が、秋の空へ吸い込まれていく。
勝ったのはイクイノックスだ。
なのにスタンドを包んでいるのは、敗れた逃げ馬への拍手だった。
少なくとも俺には、その拍手が。
24年前から続いていたもののように聞こえた。

(46のおっさんが競馬場でボロ泣きとか、格好悪すぎるだろ)
そう思うほど、目の奥が熱くなって止まらない。
勝ったのはイクイノックス。それは認める。
あの末脚は、正直ちょっと次元が違った。
でも、今日の「夢の続き」を見せてくれたのは、間違いなくパンサラッサだ。
あの日サイレンススズカが走り切れなかった続きを、この馬は最後まで走ってみせたのだ。
【⑥:大欅の向こう側へ】
レースが終わると、人々がそれぞれの方向へ散っていく。
馬券に悪態をつく者、スマホを開く者。
俺はしばらく動けない。
手すりに両手をかけたまま、ぼんやりコースを眺めている。
ぐちゃぐちゃだった感情が、少しずつ形になってくる。
まず、安堵。
(無事だった。大欅の向こうから、ちゃんと出てきた)
体中の力が抜けるようなあの感覚は、24年分の呪縛がふっとほどけた瞬間だったのかもしれない。
(俺、ずっと待ってたんだな)
自分でも気づかないうちに、24年も。
そして、あの一撃への畏怖。
夢の続きを走り切った馬を、最後の最後に現実へ引き戻していった何か。
軽トラの横をフェラーリが抜いていくような、根本的に違う速度。
(あれは、違う)
それ以上の言葉が出てこない。
帰り際、俺は振り返って大欅を見る。
秋の夕暮れの中、大きな木がただ黙って立っている。
24年前も、同じように立っていた。
(見てたんだよな、お前は。あの日の悲劇も、今日の続きも)
俺は深く頭を下げる。

誰かに見られたら、完全にヤバい奴だ。
いい歳して、競馬場の木に本気でお辞儀している男。
それでも、そうせずにはいられない。
「見たよ。ちゃんと、見たよ」
独り言は秋風に吹かれて、どこかへ消えていく。返事なんてあるわけがない。
それでも、胸のつかえは不思議と取れている。
(また来よう。膝が痛かろうが、なんだろうが)
少しだけ軽くなった足取りで、俺は府中本町の駅へ歩き出す。

【終章:受け継がれるもの】
そのあとも、イクイノックスの快進撃は止まらなかった。
年末の大一番を勝ち、春には海を渡り、秋には同じ府中の芝2000mで、とんでもないタイムを叩き出す。
ニュースアプリには、世界一という文字が並んでいる。
(レーティングとか正直よくわからん)
でも、あのゴール前の加速を思い出すたび、俺は納得してしまう。
24年に一度。
いや、百年生きても出会えるかわからない馬を、俺は二度は見た。
一頭は、あまりに速すぎて、大欅の向こうに夢の続きを残した。
もう一頭は、すべてを追い抜いて、誰も届かない場所まで駆けていった。
けれど、あの日の続きを見せてくれたのは、2着だった鹿毛の逃げ馬だ。

競走馬の短い生涯の中で燃え尽きた炎が、何十年も経って、まったく違う形でまた燃え上がる。
だから競馬は、どうしようもなく面白い。
馬券は全然当たらないのに、週末になるとついスポーツ新聞を買ってしまうのは、たぶんそのせいだ。
窓枠にもたれて、缶のハイボールをあおる。
暖房のせいでぬるくなっていて、正直あんまり美味くない。
秋の夜空に向かって、小さく呟いてみる。
「見たよ。ちゃんと、見たぞ」
返事はない。
国道を走るトラックの排気音が響いてくるだけ。
(いい歳して、何やってんだか)
それでも俺は、来年の秋もまた競馬場へ行く。
東京競馬場、大欅が黙って立っている。
22歳のあの日曜日から始まった物語は。
たぶん、俺が死ぬまで終わらない。
了
1998年11月1日、第118回天皇賞・秋。
サイレンススズカ、4歳没(当時の旧馬齢表記では5歳)。生涯戦績16戦9勝。
2022年10月30日、第166回天皇賞・秋。
パンサラッサ2着、イクイノックス1着。
両レースの1000m通過タイム、57秒4
こちらもご覧頂ければ幸いです。⇧⇧⇧
単話完結のお話を纏めました⇩⇩⇩
