第15話「虹とスニーカーの頃合い」
会議室のドアが静かに閉まったとき、小野憲一は自分がどんな顔をしていたのか、よく覚えていない。
「早期退職制度のご案内です。小野部長のこれまでのご貢献には、本当に感謝しております」
人事部長の言葉は、丁寧で、そしてどこまでも他人事だった。二十八年勤めた二輪製造会社。製造部長として、若手を育て、ラインを守り、会社のバイクを愛してきた。だが時代は変わり、会社は変わり、憲一という人間の居場所も、少しずつ形を変えていったらしい。
その日の夜、憲一は妻の由美子にすべてを話した。
「辞めてって言われたのね」
由美子の声は静かだったが、その静けさの奥に怒りがあることを、憲一は三十年近い結婚生活で知っていた。
「悪い話じゃない。退職金も出るし、家のローンはもう終わってる。子供たちも独立した。生活には困らないよ」
「そういう問題じゃないでしょう」
由美子は憲一を見つめた。
「これからどうするの。毎日家にいられても困るし、かといって、あなたがぼんやり過ごすのも見たくない」
憲一は少し黙ってから、ずっと胸の奥にしまっていたことを口にした。
「バイクで、日本一周したいんだ」
由美子は目を丸くした。
「あなた、バイクなんて乗ったことないじゃない」
「ないよ。でも、うちの会社が作ってきたバイクで、この国を走ってみたいんだ。製造部長として、何千台、何万台と送り出してきたバイクが、実際にどんな風景の中を走るのか、この目で見たことがない。それが心残りだった」
由美子はしばらく黙っていたが、やがて小さくため息をついた。
「初めてで日本一周なんて、無茶よ。心配で夜も眠れない」
「だったら、毎朝一枚、写真を送るよ。生きてます、元気ですって。それでどうだろう」
結局、由美子は折れた。折れたというより、憲一の目にずっと見たことのない光が宿っていることに、気づいてしまったのかもしれない。
「一周終わったら、ちゃんと次の仕事を探すのよ」
「約束する」
そうして憲一は、大型のツーリングバイクを一台買った。かつて自分が製造ラインで見送ってきたのと同じシリーズの、最新モデルだった。
出発の朝、憲一は玄関先でバイクにまたがり、スマートフォンで一枚、自分の顔と青空を写した。
〈出発します。無事です。行ってきます〉
由美子に送ったメッセージには、少しだけ震える文字が並んでいた。
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