第10話「出発(たびだち)の詩」

告知室の白い壁が、やけに目に染みた。
「膵臓がんです。ステージ三。早期ではありませんが、手術と抗がん剤治療の選択肢もあります」
医師の言葉が、まるで他人事のように耳の中を素通りした。仙台彰、六十三歳。三十五年間勤め上げた商社をこの春に定年退職し、これからようやく自分の時間が持てると思っていた矢先だった。
「彰さん、聞いてますか」
隣に座る妻の明美が、低い声で言った。感情のこもらない声だった。そうだ、彼女を連れてきたのは自分だ。定期検診で引っかかり、精密検査の結果を聞くだけだから一人で来るつもりだったのに、明美が「どうせ暇だから」と言って付いてきた。今思えば、あの言葉にも棘があった。
帰り道、二人は無言で病院の廊下を歩いた。自動ドアをくぐると、五月の風が頰を撫でた。
「……悪かったな」
気づいたら、そう言っていた。
明美は少し足を止め、すぐに歩き出した。
「何が?」
「いろいろと」
「今さら」
それきり、二人はまた黙った。
その夜、彰は書斎で一人、天井を見上げた。がんという言葉がぐるぐると頭の中を回る。死ぬかもしれない。いや、死ぬのだ。いつかは。だが「いつか」が急に近づいてきた。
棚に並ぶ業績表彰の盾、取引先からの感謝状、写真の中で笑う若い自分。すべてが会社の話だ。家族の写真は一枚だけ。娘の成人式の日に撮ったもの。その日も彰は式に遅刻し、明美に「もういい」と言われた。
娘の結婚式にも、二次会には出なかった。重要な商談があったからだ。
明美はずっと一人で、すべてをこなしてきた。
彰は椅子から立ち上がり、リビングへ向かった。明美はソファでテレビを見ていた。音を小さくして、画面だけを眺めている。
「温泉に行かないか」と彰は言った。
明美はテレビから目を離さなかった。「どこへ」
「蔵王でも、秋保でも。どこでも好きなところ」
しばらくの沈黙。
「……行ってもいいけど」
それが承諾だった。
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