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自分の”推し”に賭けたギャンブラー──デュラン=リュエルのビジョナリー型ビジネス

📘 このシリーズでは、「五郎さんがえらくこだわっているモネと後妻アリスの関係」を手がかりに、当時のブルジョワ社会の構造を多角的に読み解いています。

🖼️ 今回は「モネの『市場価値』の実像」シリーズ第4回目・第1部、「アート市場の主導権を握った戦略家たち──近代画商のビジネスモデル進化論③」として、将来の価値を見込んで傍流画家に投資(投機?)して”当てた”「元祖推し活画商」デュラン=リュエルを取り上げます。



投機家の野心―小規模・傍流からの出発が決定づけた独自路線


傍流で小規模経営ながら、自らの審美眼で将来性を見込んだ作家を先物買いする──そんなビジョナリー型ビジネスで、長い年月をかけ、経済的にも危うい綱渡りを続けながらようやく成功を掴んだのが、五郎さんが画商シリーズの第一回で取り上げたポール・デュラン=リュエルでした。現在に至るまでこの画商が高い知名度を誇っているのは、彼がまだ無名だった印象派に“賭けた”「大博打」が見事に的中したからにほかなりません。その意味で、デュラン=リュエルの取ったビジネスモデルは、前回ご紹介した──すでに価値の定まった作品を大量に仕入れ、グローバルに流通させていた──グーピル商会の王道ビジネスとは対照的でした。

ラ・ペ通り1番地、ヴァンドーム広場近くにあったギャラリー・スタンプの店舗(Photo Archives Durand-Ruel © Durand-Ruel & Cie.)。デュラン=リュエル画廊は当初、絵画の販売だけでなく貸し出しも行っていました。当時のブルジョワ家庭では、来客を驚かせるために一夜限り絵画を借りる習慣があり、購入するリスクを取らずに芸術を楽しむ手段となっていました。また、裕福な家庭の娘や教師たちが模写用に絵を借りることもあり、販売よりも貸出のほうが収益性が高かったそうです。

もともと文具・画材屋から画商に転じた父の事業を1865年に継いだデュラン=リュエルは、父の代から取り引きのあった「1830年派」の画家たち──カミーユ・コロー、ジャン=フランソワ・ミレー、ウジェーヌ・ドラクロワ、ギュスターヴ・クールベなど──の作品を扱うところから出発しています。彼らはサロンには入選していたものの、アカデミー派からは依然として傍流とみなされていた画家たちでした。

当時の画商には、グーピル商会のように複製版画販売から転じたタイプと、画材屋から派生したタイプの二系統が多く見られます。後者は事業形態の性格上、小規模ビジネスであることが多く、芸術家支援の色合いがより濃いのが特徴です。メインストリームの画家は大手が手掛ける傾向が強かったため、中小規模の画廊は必然的に傍流の画家を扱うことが多かったように見受けられます(ゴッホによる肖像画で知られる「タンギー爺さん」は、その極端な典型例でしょう)。

実際、「市場原理が美の価値基準を覆すとき」の回で紹介したサロン画家ウィリアム・アドルフ・ブグローは、取引先でもあったデュラン=リュエルの助言を受けて、1860年代からアカデミー色を抑えた「売れる絵」を描き始め、英国市場で成功を収めていました。ところが1865年、倍額の報酬を提示したグーピル商会に「移籍」してしまいます。この経験が、デュラン=リュエルをして主流との決別を決意させ、傍流での独自路線を志向させたのかもしれません。

ウィリアム・アドルフ・ブグロー《兄弟愛》(1851年、147 × 113.7 cm、ボストン美術館)。本作は1855/56年にベルギー人画商エルネスト・ガンベールが画家から購入後、1856年にデュラン=リュエル父へ売却。さらに1867年、息子ポールがアメリカの蒐集家に転売しました。ガンベールは、かつてグーピルのロンドン支店開設のために渡英した版画商でもありました。


成功までの長き茨の道―”推し”に賭ける信念(執念?)と経済的リスク


以後、デュラン=リュエルは、サロン画家の作品をすべて売却して得た収益をもとに、「1830年派」の画家たちの作品を作家から直接まとめて買い取り、その価値を長年かけて高めていきました。そしてようやく彼らの評価が上がり、高値で売れるようになった頃、その売却益を元手に、新たな潮流である「印象派」の絵画を買い始めたのです。

もっとも、将来性を信じながらも現時点では売れない作品に集中投資するこのモデルには、常に大きな資金的リスクがつきまといました。「売却のタイミングを待つ余裕」に加え、評価が確立するまでの過渡期には、オークションなどでの値崩れを防ぐための”買い支え”資金も不可欠だからです。

あいにく、1873年の恐慌、1882年の株式暴落と、立て続けに経済危機が襲っていた当時、「資本不足のため、早期売却を強いられ、十分な利益が得られない」といった状況も少なくありませんでした。それでもデュラン=リュエルは絵画ではなく額縁(!)の価値を担保に資金調達に奔走し、投資を呼び込みます。小規模な画商や個人から作品を買い戻して価格の下落を防ぎ、特定画家の作品を包括的に扱う独占体制の構築を成し遂げるまでに、彼が潜り抜けた金融界と美術市場を結ぶ”綱渡り”のような日々は、まさに緊張の連続だったことでしょう。

1879年、ラフィット通りのデュラン=リュエル・ギャラリーで開催された「フランス水彩画家協会」展の様子(『リュニヴェール・イリュストレ』1879年4月26日号挿絵)。

これまでにも何度か、モネがデュラン=リュエルとの価格交渉で見せた容赦ない姿勢を紹介してきましたが、画商側にもまた、背に腹は変えられない切実な事情があったことが、このような状況を知るとクリアに見えてきます。モネが「成功」へとたどり着くまでの長い道のりは、まさにデュラン=リュエル自身の悪戦苦闘の道のりでもあったのです。既存の価値に挑み、「新しい絵画」の価値が広く認知されるためには、数々の“仕掛け”が必要であり、そのための潤沢な資金、そしてその仕掛けが想定通りに機能し始めるまでの長い時間と忍耐が不可欠だったからです。

1884年2月7日付『フィガロ』紙に掲載された、批評家アルベール・ヴォルフによる「マネの遺作展」の記事は、デュラン=リュエルに対する当時の世間一般の認識をよく表しています。

この集まりには、友人たちと妄信者たちが入り混じっているが、その中で鑑定人デュラン=リュエル氏は特筆に値する。かつてミレー、ルソー、コロー、ドラクロワの作品が安値で彼の手を通った。今やこの善良な人物は、バティニョール派の画家たちでもう一度同じことをやろうとしている。一時はマネがその指導者だった。彼のもとには最も過激な印象派たち──カイユボットやその他諸々──が集っている。デュラン=リュエル氏は、こうした画家たちに最も輝かしい未来が訪れると予測しているのだ……

つまり、1874年の第一回印象派展から10年を経た1884年になっても、印象派の画家たちの作品はまだ”過激”と見なされ、それゆえ「よく議論の対象とはなったが、まだ非常に安価でしか売れていなかった」というのが一般的な見方だったのです。そして世間はこの「過激な印象派たち」に先行投資するデュラン=リュエルのこの「賭け」が果たして当たるのかどうか、興味津々に見守っていたのでした。

クロード・モネ《テムズ川と国会議事堂》(1871年、47 × 73 cm、ナショナル・ギャラリー〈ロンドン〉)。本作は1873年夏、ロンドン・ニュー・ボンド・ストリート168番地のデュラン=リュエル画廊で開かれた「第6回フランス人芸術家協会展」でメイン展示されました。デュラン=リュエルは従来の作品と新しい作品を並置して顧客の反応を見ながら、新たな価値観を市場に浸透させていく手法を採っていました。


アメリカ市場への「賭け」―高値を生んだ啓蒙型マーケティング


しかし、普仏戦争(1870〜71年)時にすばやくロンドンへ「疎開」してビジネスを継続していたデュラン=リュエルの強みは、フランス国内市場のみに頼らない、国際的な視野をすでに備えていたことでした。1883年にはピサロに宛てて、「新世界を旧世界と同時に革命する必要がある」と、ボストンに絵画を送る旨を知らせています。この知らせを受け取ったピサロは、息子リュシアンにこうジョークを飛ばしています。

「パリで我々(印象派)は病人か狂人のように扱われている……でもボストンは遠すぎて、そんな声は届かない!」

しかし実際、アメリカ市場に賭けた画商の先見の明こそが、最終的には救いをもたらすことになるのです。

デュラン=リュエルのビジネスモデルは、グーピル商会のように世界各地に支店を構え、大量の作品を短期間・低マージンでさばく手法とは対極にありました。彼は特定の画家に注力し、その作品を独占的に扱いながら、展示・出版・批評など多面的な啓蒙活動を通じて市場価格を高めていったのです。
つまり、教育と説得によって価値を創出する戦略といえます。

すでに評価の定まった作品を展示する際には、そこに少しずつ新しい絵画を紛れ込ませ、顧客の反応を見ながら批評界の評価を育てていく──そうした粘り強い説得のプロセスを重ねることで、新しい価値観を市場に浸透させていきました。その結果、作品のマークアップ率は、2倍どころか数倍から数十倍にまで跳ね上がったのです。

(左)ピエール=オーギュスト・ルノワール《ポール・デュラン=リュエル》(1910年、65 × 55 cm、デュラン=リュエル・コレクション)、(中)《シャルル(1865–1892)とジョルジュ(1866–1931)・デュラン=リュエル》(1882年、65 × 81 cm、個人蔵)、(右)《ジョゼフ・デュラン=リュエル(1862–1928)》(1882年、81 × 65 cm、個人蔵)。グーピル商会が国際画商と提携して事業を拡大したのに対し、デュラン=リュエルは家族をマーケットに送り込むかたちで国際化を図った、典型的なファミリービジネスでした。

デュラン=リュエルは生涯で5,000点以上の印象派作品を購入したと言われています。これに「1830年派」やその他の作品を含めても、グーピル商会の取扱点数(37,000点超)には遠く及びません。しかし、かつて嘲笑の的であった印象派作品から、長年をかけて最大の利益を引き出したという点で、彼は比類なきビジョナリーであったといえるでしょう。ルノワールの言葉を借りれば──「このきちんとしたブルジョワで、良き夫であり父、誠実な王党派にして敬虔なキリスト教徒は、同時に根っからのギャンブラーだった」のです。

ただし、このギャンブラーたるデュラン=リュエルは、商品の価値を引き上げるために時間と労力を惜しまない、極めて粘り強いギャンブラーでした。ところが、同じギャンブラーでも、花火を打ち上げるように派手なイベントで短期間に絶大な集客力を誇ったライバル画商がいました。饒舌な社交人──ジョルジュ・プティです。

次章ではこのプティのビジネスモデルについて考察してみたいと思います。ぜひこのリンクから読み進めていただければ幸いです。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。




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