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1ドル未満の寄付が叶えた夢 ── 自由の女神像の資金調達(3) | 自由の女神像の誕生秘話 #6

自由の女神像の資金調達にまつわる裏話、第3回(最終回)です。

1875年から5年がかりで資金を集めたフランスでは、着々と女神像の制作が進んでいましたが、アメリカでの台座建設資金の調達は難航していました。像が完成し、いよいよアメリカへ送られる段階になっても、迎え入れる台座の建設費用が不足していたのです。今回は、この危機をどのように乗り越えたのかを紹介します。



難航するアメリカの資金調達 ー 大富豪は出し渋り、公金も頼れず

1876年のフィラデルフィア万博で公開された女神像のトーチは話題となり、入場料や関連グッズ販売、寄付などを通じて資金を集めました。しかし、長期にわたるプロジェクトに人々の関心は次第に薄れ、資金調達は停滞。フランスからの贈り物なのになぜアメリカが費用を負担するのかという疑問も根強く、特にニューヨーク周辺以外では当事者意識を持つ人が少なかったことも課題でした。実際、集まった資金の9割はニューヨーク地区からのものでした。

1876年のフィラデルフィア万博に展示されたトーチは、その後1882年までニューヨーク・マディソン・スクエアに設置されました。ここでは入場料ではなく、寄付をした人だけが登れるというシステムが導入されていました。バルトルディは、女神像の設置場所を巡るニューヨークとフィラデルフィアのライバル関係を利用し、寄付を促進しようとしたのです。

さらに、当初12.5万ドルと見積もられていた台座建設費は、倍の25万ドルに膨れ上がります。当初は楽観視していた資金調達委員会も、次第に危機感を強めていきました。メディアを通じた呼びかけ、富豪への支援要請、フランス美術展や演劇・コンサートの開催など、あらゆる手段を試みるも、いずれも決定打にはなりません。

困り果てた委員会は、公的予算の支援を求めますが、1883年3月、アメリカ議会は台座建設のための10万ドル支出案を否決。事態は完全に行き詰まります。

ヴィクトール・ダルゴー《シャゼル通りの鋳造工房ガジェにあるバルトルディの自由の女神像》(1884年頃)。アメリカからトーチが戻った後、引き渡しセレモニーでの披露のため、女神像はパリで一度組み立てられました。その後、再び解体され、木箱に収められ、ルーアン港からニューヨーク港へ輸送されます。

見切り発車するも、資金切れで中断される建設現場

一方、パリでは1884年7月4日、完成した女神像の引き渡し式が行われます。アメリカ側も同年8月、ベドロー島で台座の定礎式を強行し、下層構造の強化工事を開始。年末までに2万キロものコンクリートを使った高さ20メートルの基壇が完成しました。

自由の女神像の台座下部の現場打ちコンクリート工事(1885年)。台座は、もともとベドロー島(現リバティー島)にあった星形要塞(フォート・ウッド)の一部を活用して建設されました。

しかし、依然として資金不足は深刻で、工事は何カ月も中断。どうしてもあと10万ドルを集めなければ、台座建設を再開できない状況でした。ここで立ち上がったのが、後にピューリッツァー賞を創設する新聞王ジョーゼフ・ピューリッツァーです

ピューリッツァーの大衆動員策 ー 1ドル未満でも立派な寄贈者!

ピューリッツァーは民主党員で、資金調達委員会とは距離がありましたが、自由の女神像が象徴する「自由の理念」には深く共鳴していました。そのため、大富豪たちの冷淡な態度に憤りを感じていたのです。彼は「金持ちは民主主義などどうでもよく、関心があるのは金儲けだけだ」と嘆いていました。

彼は当時、赤字続きだった『ニューヨーク・ワールド』紙を買収し、大衆向けの新聞として成功させた人物。17歳でハンガリーから移住したピューリッツァーは、移民労働者の心理を理解しており、彼らに訴えかける手法を心得ていました。そのスキルを活かし、女神像台座の資金調達キャンペーンを展開します。

1885年3月16日、『ワールド』紙の社説でピューリッツァーは「人々の声を聞こう!」と力強く訴えました。

「とにかく資金を集めなければなりません! 『ワールド』は皆さんの新聞であるからこそ、皆さん一人ひとりに呼びかけるのです……この像は、労働者、職人、商人、店員など、あらゆる階層の人々が支えてこそ成り立つものなのです。我々も、それにふさわしい行動をとりましょう。大富豪たちが寄付するのを待つのはやめましょう!」

この呼びかけにより、低調だった寄付活動が一気に活性化します。

10万ドル達成を告げる1885年8月11日付の『ワールド』紙の一面。

ピューリッツァーは、「寄付金額に関わらず、全ての寄付者の名前を新聞の一面に掲載する」 ことを約束しました。それまで富裕層だけのものだった「寄付者名の公表」を一般市民にも広げたことで、多くの人が寄付し、さらに新聞の売上も伸びました。

こうして、寄付金の増加とともに『ワールド』紙の発行部数も急増。ピューリッツァーは、わずか5カ月で12万人から合計10万2006ドル39セントを集めることに成功 します。ついに1885年8月11日、『ワールド』紙は目標額達成を報じ、台座建設資金の調達が完了しました。これは、自由の女神像がフランスから到着するわずか1カ月前 のことでした。

集まった寄付の4分の3は1ドル未満であり、まさに民衆の力によって女神像は支えられたのです。

エドワード・モラン《ニューヨーク港に到着する自由の女神像、イゼール号の歓迎式典 1885年6月20日》(1885年)。

民衆の力で完成した自由の女神像

資金調達が完了すると、すぐに台座の工事が再開され、到着した女神像の組み立ても始まりました。強風にさらされるベドロー島での設置は困難を極めましたが、1886年10月28日、ついに除幕式が行われました。

こうして、長年の困難を乗り越え、多くの人々の力によって誕生した自由の女神像は、アメリカのシンボルとして大歓迎を受けました。

エドワード・モラン《世界を照らす自由の女神除幕式》(1886年、ニューヨーク市立博物館)。 1886年10月28日、自由の女神像の除幕式が行われ、600人の招待客と、何千もの観衆が船から式典を見守りました。しかし、ピューリッツァーを含む移民や黒人、女性は招待されていませんでした。

さて、1865年の構想から1886年の完成まで、このプロジェクトには米仏両国で多くの人々が関わり、それぞれの段階で重要な役割を果たしてきたことを確認しました。彼らには、ある共通点があります。それは、自由を愛し、自らの力で道を切り開いた「セルフメイドマン」 であることです。

次回は、19世紀に生まれたセルフメイドマンとアートの関係について考察します。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


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