移りゆく言葉たち
「言葉は生きものだ」と、思っています。
その言葉通り、私たちの話す日本語は日々、まるで生き物のように形を変え、進化を続けています。
若い方が使う省略された言葉を耳にすると、思わず「なるほどな〜」と感心してしまうことが少なくありません。
彼らの生み出す新語は、今の時代のスピード感や空気感を驚くほど見事に、そしてユニークに切り取っていると思います。
その瞬発力とユーモアには、思わずクスッと笑わされます。
と同時に、言葉が持つ計り知れないエネルギーを感じて、妙にワクワクしてしまうこともあります。
けれど、新しい言葉が生まれるスピードの裏側で、少し寂しさを覚える瞬間もあるのです。
日本語が古来から大切にしてきた、独特の情緒や趣。季節の移ろいや、人の心の機微をそっとすくい上げるような、あの美しい言葉たちが、少しずつ暮らしの中から消えかけているような気がしてしまうから。
たとえば、単に「雨」と言うだけでなく、その降り方や季節によって「五月雨」「時雨」「慈雨」と呼び分ける感性。
あるいは、はっきりと白黒つけない「もののあわれ」や「いとをかし」といった、余白を残した表現。
そうした、行間から滲み出るような美しい言葉たちが使われなくなってしまうのは、とてももったいなく、どこか切ない気持ちがしてしまいます。
言葉が変わっていくのは、私たちが今を生きている証拠。
だからこそ、時代の最先端をゆく軽快な言葉の面白さを面白がりつつも、先人たちが遺してくれたグラデーション豊かな美しい日本語も、大切に手元に残しておきたい。
新しさと古さ。そのどちらの魅力も味わいながら、人と人をつないでくれる、このかけがえのない「生きもの」を大切にしていきたいです。
