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さっぽろ雪まつり「会津若松 鶴ヶ城」その1

今年のさっぽろ雪まつりで何と言っても圧巻だったのが会津若松の鶴ヶ城である。

制作したのは陸上自衛隊北部方面隊の真駒内駐屯地の第十一旅団第十八普通科連隊だ。

アイスブロック工法と呼ばれるやり方で製作している。

アイスブロック工法とは、瓦とか細かい部品を雪を型に入れて製作したのを雪像本体へ付けて行くものだ。

これ以前見た時は素手で付けていた。

体温で暖めて付けると形も良く溶けにくくなるのだとか・・・。

やばい・・18普連の隊員やばいよ・・と思ったものだ。

そんな手間暇かけて製作された鶴ヶ城がこんなにも美しく神々しささえ感じる。

そんな会津若松の「鶴ヶ城」の歴史は決して美しいだけではない。

戊辰戦争では幕府軍として、会津戦争で悲劇の籠城戦を行った城として知られているからだ。

正式には「若松城」という、別名が「鶴ヶ城」である。

ただ同名の城が他にもあるため会津若松城とも呼ばれている城である。

永い歴史の中では黒川城、会津城とも呼ばれていたこともあるとか・・・。

制作したのは第十八普通科連隊

1593年(文禄2年)に望楼型7重(5重5階地下2階とも、また7重には「何段にも重なる」の意味もある)の天守が竣工し、名は「鶴ヶ城」に改められた。

1868年10月8日、会津若松城攻略戦を開始。

北出丸への攻撃で、迅衝隊大軍監、各隊長ら土佐藩側将兵の死傷者が続出する。

11月3日に迅衝隊総督、板垣退助により11月6日を期限として会津藩に開城降伏を説き、会津城下甲賀町で降伏儀式が行われ新政府軍に明け渡した。

戊辰戦争後、天守を含む多くの建造物の傷みは激しかったが修復は行われず、しばらく放置された後、解体された。

1965年に鉄筋コンクリートの城として復元され現在に至っている。

雪像横には「白虎隊」の文字が刻まれている。

白虎隊のことは知っているだろうか?

白虎隊は、会津藩が戊辰戦争勃発後に断行した軍制改革において、数え16・17歳(嘉永6・5年生まれ)の藩士子弟で組織した総勢300余名の年少部隊。

白虎二番士中隊は飯盛山での自刃(十九士の墓)で知られるが、白虎隊士の8割以上は戦死・自刃を免れ明治維新後を生きた。

飯沼貞吉は、年齢を偽って白虎隊に参加したが、戦い利あらず、飯盛山にて他の十九士と共に自刃に及んだが、死に切れず命を救われた。
後に札幌にも一時期住んだ縁がある。


私の祖父は終戦直後占守島でソ連軍と戦った。
今日ではよく知られているが、終戦後千島列島の北端にある占守島へソ連軍の火事場泥棒的な侵攻に対し戦った占守島の戦いである。

占守島には戦車十一聯隊、通称士魂戦車隊がある。
戦後陸上自衛隊第十一師団の十一戦車大隊が士魂のマーキングと共に士魂戦車隊の精神を継承し私も士魂の戦車に乗っていたことがある。

その士魂戦車隊の指揮官は池田末男大佐で「戦車隊の神様」と呼ばれる軍人であった。

第五方面軍司令官樋口季一郎中将の「上陸軍を断固粉砕せよ」の命令に対し部下に対し問うた。

池田大佐は、「赤穂浪士となって恥を忍んでも将来に仇を報ぜんとするか,あるいは白虎隊となり、玉砕をもって民族の防波堤となり後世の歴史に問わんとするか」と部下たちに問い、「赤穂浪士たらんとする者は一歩前に出よ、白虎隊たらんとするものは手をあげよ」と呼びかけたところ、全員諸手を挙げて「おう」と応えた、家族と再会する夢をおいて、「防波堤」になるために・・・、池田大佐は涙ぐみながら、「ありがとう、聯隊はこれより全軍をあげて敵を水際に殲滅する」と出撃命令を下したと伝わっている。

少年戦車兵出身者も多い戦車部隊の話である。

白虎隊となってソ連軍と戦う覚悟を決めたお陰で、北海道も札幌もソ連に侵攻されずに済んだことは忘れてはならないのだ。

鶴ヶ城は白虎隊が「御城が燃えている」と勘違いではあったが、城の陥落を見て自刃したと伝えられている。
その御城である鶴ヶ城が大雪像となって甦ったのには感慨深いものがあるのである。



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戦車兵 チップありがとうございます!!無理なさらず御覧頂けたら幸いです。