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寄り添いながら突き抜ける、とある魔法の仕掛け人

なんのはなしですか

これを見て「おっ」と反応したあなたは、おそらく一度はあの路地裏に足を踏み入れたことがあるのではないだろうか。
そうでなくとも、この魔法の言葉を知る人は今やかなりの人数だと思う。

これは創作大賞の感想文ではなく、ある創造主の目撃談と言った方がいいかもしれない。


私がこの言葉を知ったのは今年の3月末。
猿荻レオンさんの記事を読んだのがきっかけだった。
な、なんだこれは。何の話をしているのかさっぱりわからない。それなのになんか面白いという不思議な感覚。レオンさんの文章力もさることながら、この全てをさらっていくような〆の言葉の魅力はなんだ。私はそう思った。

しかもなにやらそれをハッシュタグとして掲げ、拡散したり収集したりしている人がいるらしい。
私はこういう新しい切り口で物事を楽しむ考え方やアイデア、発想が大好きで「なんのはなしですか」にとても惹かれた。そして自分も使いたくなって、ハッシュタグをつけて投稿をした。それが4月の話。

「なんのはなしですか」のハッシュタグをつけると、なんのはなしです課に所属しているコニシ木の子さんという方が記事を「回収」しに来てくれ、週に一度報告される「なんのはなしですか通信」にて記事を紹介をしてくれる。このコニシ木の子さんこそが、noteの中で約3年間一人でなんのはなしですかと書き続け、この大きな波を仕掛けた張本人だ。


今更ながらに説明すると「なんのはなしですか」とは文字通り、なんのはなしかわからない時に使える魔法の言葉である。
面白いオチや立派な結論もいらない。ためになる話でなくても、意味がわからなくてもいい。書くことに行き詰まった時に「大丈夫」とそっと手を差し伸べてくれるような救いの言葉でもある。

コニシ木の子さんは毎週淡々と、日に日に増えていくなんのはなしですかを回収しては投稿された全ての記事にコメントを残し、そして翌週に改めて言葉を添えながら記事を紹介している。
これ、最初の方こそじわじわと増える投稿の数に「すごい!広まってきてる!」と喜びや手応えを感じたと思うのだが、今となっては喜んでいる暇がないのではないかというくらい、投稿数はとんでもないことになっている。


通信五通目の時点で投稿数はかなりの量になり、紹介する記事には目次がついた。一週間で「なんのはなしですか」をつけて投稿した人は20人を超え、紹介文は7000字を超えるようになった。
通信を読むごとに「あ、あの人」「この人も書いてる!」と知っている人たちをお見かけすることも増えていった。

私はもしかすると、ビックウェーブの誕生を目の当たりにしているのかもしれない...。

通信を読む度にそう思った。序盤の方に乗っかってみた自分がなぜか誇らしいようにさえ感じられた。(ミーハー)
そして通信は本日で十八通目、なんのはなしですかのハッシュタグがついた記事は合計で2300を超え、週に約100人もの人がこの言葉を一緒に楽しみ、思い思いのなんのはなしかわからないはなしを投稿している。
もちろん投稿数に比例するように紹介文もどんどん長くなり、今や25000字を超えている。この規模になっても、彼は毎週欠かさず報告を続けているのである。


これはとてつもない作業だと思う。正直、私だったら嬉しい悲鳴を通り越してしんどいと思ってしまいそうだ。もし自分が同じようなことをやったとしたら、最初に使ってくれた数人こそ「わ〜書いてくれて嬉しいなぁ」と喜んで紹介するかもしれないが、たくさんの人がその波に乗っかってくれたあたりで「みなさんありがとうございます!これからも楽しんでください!」と自分が出した船から降り、手放してしまうかもしれない。

しかし、コニシ木の子さんは違った。
そしてなぜそこまでするのか、その想いをこちらに記している。


自分を信じて一人で書き続けた数年。そして挫折の末じっくり戦略を練り、コンセプトを決め、ぶれることなく実直に己の足で全ての記事を見て周り、己の手できっちり応える言葉を返すことにした。その理由やなんのはなしですかにかけるの想いのすべてがこの記事に詰まっていた。
これは偉業だと思う。彼が思い描いていた「エンターテイメントの創作」がまさに実現した、実現させたのだ。

自分の生み出したものが大きな波になっていく。
感動、快感、興奮、そんな言葉では言い表せないくらいの様々な感情が湧き上がるだろうと想像するだけで震える。
しかも彼が生み出したのは、何か一つの作品という「点」ではなく「輪」であり「場」でありムーブメントなのだ。


生む、つくるということが好きだと思っていた私は、今までなんて小さなものを作っていたのだろうというような気持ちになった。コニシ木の子さんの生み出したこの壮大な試みと自ら全力で取り組む姿に、ただただ「かっけぇ...」と思ってしまった。
語彙力を失うってこういう時に使うのか。なんと言い表せばいいのかわからない尊敬のような念を抱いた。

しかもそれが「なんのはなしですか」という、なんのはなしでもないものというところがまた、かっこよすぎるのだ。実態がないようで、だからこそ誰もがそこに参加し、楽しむことができる。
コニシ木の子さんは、ただただ真剣に自分の信じたことを貫き、悩み、試行錯誤をして、自分の思い描いたことを形にしていったのだ。


自分の書いたものはつまらないんじゃないか。何のためにもならないし、何の価値もない。
文章を書いているとそう思う時がある。今まで自分が見てきた「評価される世界のフィルター」を通すと、自分の書いたものは「つまらないもの」だろう。そう感じた時の虚しさというか無力感ってどうしようもなく苦しい。

しかし、なんのはなしですかという言葉、ムーブメント、何と言い表せばいいかわからないのでやはり魔法と呼ぼう。この魔法は、なんのはなしでもない話やそんな悩める人々に光を与えた。価値を生み出したのだ。
しかもそこに、コニシ木の子さんの全身全霊のレスポンスが返ってくる。

自分の書いた記事を絶対に読んでくれる人がいるということは、とても嬉しいしすごく心強い。彼は必ずコメントを寄せ、さらに紹介までしてくれるのだ。こんなに嬉しいことがあるだろうか。
あくまで自分のために創作をしているという人でも、誰しも読んでくれたり反応をしてもらえたら嬉しいはずだ。特にnote然り、人に見られる場に公開している人なら少なからずそう感じるだろうと思う。
「だれもが創作をはじめ、続けられるようにする」というnoteのミッションをコニシ木の子さんは自分なりのやり方で表現したのだ。


コニシ木の子さんに「回収」されることによって、何かを書くのって、創作ってやっぱり楽しい!と前向きな気持ちになれた人もいただろう。私もその一人だと思う。
創ることが好きな人はたくさんいる。でも、その思いがあるからと言ってひたすらに自分を信じて淡々と突き進んでいける人ばかりではない。それができないのならその程度だとか本物じゃないとかいう話でもない。

自分に自信を持ちたいけれど、持ちたいからこそ人の評価を気にしたり、世の中に受け入れられたい、認められたいと思って葛藤することもある。
その中で「こんなのは〇〇とは呼べない」というワードを見聞きしたり自分で感じたこともあるだろう。
〇〇の中には、人によって様々な言葉が入ると思う。小説、音楽、デザイン、趣味、仕事。私が身の回りで聞いただけでもたくさんある。
そんな風に人に押されたり自分で押してきた烙印のような正解の亡霊、不安な気持ちを昇華してくれるのが「なんのはなしですか」だと私は思う。


彼は全てを受け止めてくれる。何を書いたっていい、つまらなくたっていい、なんのはなしだっていい。ただそれを全力で受け止め、全力で返す。
それが、不安で挫けそうな時やこんなくだらないことしか書けないし...と思った時、どんなに励みになるだろうか。
そしてそんな彼の取り組みに共鳴した人たちが、自分の好きなこと、得意なことでそれぞれ気持ちを返し、思い思いに表現している。
なんのはなしですかには、このムーブメントに付随して作られた画像や判子、飾り罫線、スタンプにカルタ、歌や動画まである。
これって、推しのカラーのものを身につけたり、ぬいぐるみやオリジナルグッズを作ったりするのと似ていると思う。みんな彼の、そして「なんのはなしですか」のファンなのだ。


信じたものに全ベットする。誠心誠意人に応える。誓ったことを貫き通す。
そうそうできることではない。それをコニシ木の子さんはやっているのだ。一見しれっとしたようなスタンスで、時には毒のあるツッコミを入れたりしながら。でも、それすらも考え抜かれた上でのその姿勢であり言葉選びなのだ。この投稿にその全てが書かれている。しつこいけどもう一回貼っとく。



なんのはなしですかって、例えて言うならチョコボールのくちばしみたいなものかもしれない。(森永のキョロちゃんのやつね)
ただの商品取り出し口を、その開け方や印刷色、さまざまな工夫や発想の転換によって「くちばし」というチャーミングかつ意味のあるものにして、しかもエンゼルがいるかどうかなんて仕掛けを織り交ぜて人々をワクワクさせるツールにする。
私はあのくちばしって、ものすごい発明だと思っている。


...え?いきなりくちばしについて熱く語られても何の話してるか全然わからないって?
ありがとうございます。さぁどうぞ言ってください。
「なんのはなしですか」と。

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