本能VS理性、またの名を嫉妬VSかっこつけ
日本語の嫉妬には、大きく分けると2つの意味が込められていると思う。これは英語にしてみるとよくわかる。envyとjealousyだ。
envyは、羨望と言い換えることもできる。
あの人はあんなにいいポジションにいるのに。あの子がまた旅行に行ったり美味しそうなごはんを食べて充実した毎日をSNSであげてた。あの人は頭も良くてスポーツも万能で。あいつ年下のくせにあんなに稼いでるのか。あの子は顔もスタイルも良くて。
自分よりも優れたものを持っている誰かに対して抱く、自分もそうなりたい、それが欲しいと羨む気持ち。
対してjealousyは、ジェラシーという言葉がすでに日本語としても浸透しているが、ヤキモチとも言い換えられるだろう。
浮気をされた。自分よりも弟、妹の方が親に可愛がられている。好きな人や恋人が誰かと楽しそうに話しているなど、自分のものを奪われたり、相手の好意が自分以外の者に向いていると感じ、恨んだり憎んだりする気持ちである。
これには私も覚えがある。
私の人生においての強烈なジェラシー経験は2つ。
1つは幼稚園の頃、九州に住んでいる叔母一家が初めてうちにやって来た時。私は当時2歳くらいだった従兄弟におままごとセットを貸してあげた。
従兄弟はそれを掴むなりマジックテープでくっついた私の野菜たちを存分に舐めまわし、そこらじゅうにぶん投げた。マジックテープのじゃりじゃりの方を受け止めるふわふわの方はびしゃびしゃになった。
それだけでも発狂しそうだったが、叔母に「貸してくれてありがとね〜」「えらいね〜」なんて褒められたもんだから、まぁまぁ滅多に会わないしと一応広い心を見せ押し黙る。しかし、その拷問とも思える時間をずーっと兄がつきっきりで可愛がってお世話をしてやっているあたりで私は爆発した。
おまえは!私の大事なニンジンやジャガイモをべったべたにして傷つけた挙句!私の!私のお兄ちゃんを独り占めして延々と遊びやがるのかと泣き叫んだ。
まぁその当時はそんなに口達者ではなかったが、心のうちはそんな感じだったと思う。これはまさに「奪われた」記憶だ。
私のおもちゃと、私の私のお兄ちゃん(所有欲強め)をかっさらった恨めしい従兄弟。ついでに言うとその子は色白でくるんくるんの髪を持つ森永のエンゼルを彷彿とさせるようなヨーロピアン風男児で、みんなから天使のようだと可愛がられていた。
おかしいなぁ、お兄ちゃんは私のものだし、この家で一番小さい私が一番可愛がられる世界線だったはずなんだけどな?な?
もう1つは、中学生の頃。私には当時ニコイチと呼べるくらい仲がよかった親友がいたのだが、ある日私たちのクラスに転校生の女の子がやって来た。
彼女は警察官の娘で、すらっとしたモデルみたいな体型に整った容姿、そして英語のスピーチ大会で優勝したことがあるらしく、ネイティブのような発音で英語の教科書を読み上げる子だった。しかもお笑い好きでおちゃらけるのも大好き。
英語教師ですら日本語発音で英語を教えるような田舎町にそんなスーパーガールが現れたもんだから、みんなはすっげー!と大興奮。彼女はすぐにクラスの人気者になった。
そして、当時やっていた大河ドラマにハマっているという共通点があり、その子と私の親友はその話で盛り上がって大の仲良しになったのである。
それぞれ好きな役者が違ったようで、お互いの推しがいかにかっこいいかと語ったり、ふざけ合いながら2人でモノマネなんかしたりして、放送日の翌日なんて私はすっかり蚊帳の外。
なんとか話題に入ろうと私も大河ドラマを見てみたものの全く興味が持てず、彼女のモノマネに「いや全然似てないし」なんて悪態をついたり(似てるかどうか判断できるほど見てない)、すっかり彼女のことを敵認定して、彼女がクラスで笑いを取ってもぴくりとも笑わなかった。もう彼女のやることなすこと全てが気に食わなかったのだ。
従兄弟に兄を奪われた時と同じように、今までそのポジションには私がいたのに...!と、親友の隣を奪われた悲しみと憎しみを募らせた。
ほんとは従兄弟もぷにぷにの小さな手で私の手を握って来たりしてすごく愛らしかったし、転校生の彼女もつっけんどんな私にもいつも明るく話しかけてくれるいい子だったのに。私は心がぶっ壊れそうで、どうしても優しく接することができなかった。
私はなぜ嫉妬をしたのか。それは自分のいた場所を奪われたくない、愛されたいと思う本能のようなものだったと思う。しかも奪っていったのはenvyな要素を持つ相手。せっかく分類したのに結局全部乗せの嫉妬である。
しかし、そこから先の私の嫉妬の記憶って、振り返ってみてもあまり思い出せない。「嫉妬って、あんまりしたことないんだよねぇ」なんて言葉をよく聞くが、私もその常套句を使うその1人だ。
それはなぜか。
私にはものすごーーーく心当たりのある要因があった。見栄、かっこつけである。
私は自分の中の数々の羨望や嫉妬をねじ伏せられるくらいの、筋金入りのかっこつけマンなのだ。嫉妬が人間に備わっている本能ならば、私のかっこつけはその本能に振り回されんとする理性かもしれない。いや、虚勢か。
すごい人は素直にすごいって思えるし、自分と比べたことなんてないし。
私は別にお金持ちにも有名にもなりたいって思ってないし。
あれにすごい詳しいって言われても別にそこまで興味ないし。
私も全力でやればできたかもしれないけど、あんまりやる気なかったし。
仲良さそうに話してたけど、でもまぁ彼女は私だし。
そもそも恋人だって他人だし、それにいつかはきっと別れるし。
流行ってるあの服は着こなせないけど、自分はこういうのが好きだし。
アワードの賞をとるよりも、いいもの作れた方が嬉しいし。
私はそんな風に、俺はまだ本気出してない精神で「そんなこと、気にしてませーん」と飄々と生きるのがいつの間にか板についていた。
負けたくないから戦わない。
振り向かれないなら見つめない。
どうせ終わる恋なら夢中にならない。
羨むくらいなら強い気持ちを持たない。
なんなら変な人ぶってランク付けの土俵にはあがらない。
そうやって、傷つく自分や悔しがる自分から貪欲に逃げ続けて来たのである。あんな思いをするのは嫌だ、そうなる自分がみっともない。
虚勢と見栄とかっこつけで数多の嫉妬心を無意識のうちにねじ伏せ、ひん曲がった姿勢で「世界に一つだけの花」を演じて来た。
誰だっけ、「ポリシーは"やるからには全力で"です!」とか言ってたやつ。あぁ、あれは「って掲げたい」っていうバージョンのかっこつけね。理解。
誰しも味わったことがあるであろうピュアで可愛らしい、表に出せる程度の幼少期や思春期の淡い嫉妬エピソードだけを記憶に残して、ドロドロとした気持ちや「本当はあの時あれがすごい羨ましかった」が1ミリも思い出せないくらいに私はそれを消した。
自然と沸き起こる煮えたぎるような思いを無力化する「かっこつけ」に磨きをかけて来たプロなのだ。
さて、そうやって嫉妬を避け続け、真っ向からぶつからずにごまかしてきた私はどうなったか。
のっぺりと、闘争心のない、何が本当に好きなのか、自分は本当はどんな風になりたいのかがいまいちわからない人間になった。
好きなことはもちろんある。でも、そこに対して競おうと思ったり勝ちたいと思わず、それっぽい落とし所を見つける絶妙な人間になった。
無心とはよく言ったもので、禅のようにスーンと構えたふりをして心を無くしたのかもしれない。そして「そんな自分もいいじゃない(included虚勢)」を掲げながら、心のどこかで本当は何が好きなんだっけ、もっとどうなりたいんだろうと考えるようにもなった。
私は嫉妬を疎ましく、厄介なものだと思っている。
でも、ふとした時に綺麗に消したはずの嫉妬の種を探りに行ったり、なんなら嫉妬する人やその気持ちを羨望したりするのだ。なんて恐ろしいパラドックス。どこまでいってもウロボロス。
しかし、腕によりをかけて育てた私のかっこつけはなかなかしぶとく、自然と湧き上がるであろう嫉妬を、今日もうまいこと平たくなるように無意識で心をならしている。
人ってほんと、ないものねだり。
どうやら私が迷い込んだのはドロドロの嫉妬の沼でも、みんな自分らしく生きようぜの大海原でもなく、こじらせの森だったようだ。
「嫉妬ってよくわからない」「あまり嫉妬しない方」というそこのあなた、もしかして、私と同じ森の住民だったりしませんか?
斉藤ナミさんの婦人公論.jpでの新連載スタートを記念して、池松潤さんが企画している「#嫉妬祭り」に参加させていただきました。
嫉妬についてのエトセトラ、第1回、第2回を楽しく読ませていただき、早くも次を読むのが楽しみ。私がこれまで無効化してきた嫉妬の扉が開いていきそうでそわそわドキドキわくわくしています。
ちなみに斉藤ナミさんのnoteの中で、私がすごく好きな記事はこちら。
これを読んだ時、刺さりすぎて何人かの友人に「最近これがグッサリきた」とシェアしたところ、同じように刺さりまくっていた友人が何人もいました。
そして池松さんのショート動画も熱と愛がこもっていてすごい!そこから上田監督のショートドラマも見漁ってしまい、最近やりがちなYouTubeの沼に小一時間ほど落ちてしまいました。
今まで目を逸らし続けて来た嫉妬に、改めて目を向けるいい機会になりました。
楽しい企画をありがとうございます!
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いただいたサポートで銭湯と周辺にある居酒屋さんに行って、素敵なお店を紹介する記事を書きます。♨🍺♨