自分の土俵はどこにあるのか
35万文字の物語を書き始めた時から、一年が経とうとしている。書き上げてからは半年くらい経とうとしている。
自分の物語がなんなのか、実は私にもわかっていない。
この物語は世間にとってなんの意味があるのか。
この物語は私にとってなんの意味があるのか。
この物語は誰のものなのか。
時間と共にわかると思っていた。しかしまだわからない。物語はまだ私のものであり、書くことを私に許した運命の持ち物だ。
さらには私はまだこの物語を諦めきれない。物語はストーリー的にも構造的にも完成されているので、切り取って何かに利用するということができない。少なくともまだできない。
物語を一旦放置して数ヶ月経って、読み返すと細かい矛盾や書き間違いはいくつだって見つかるが、自分が判断できる限り、物語は完成されていると思う。世間の面白いゲージに照らし合わせてどのあたりかはさておき、完成されている、輪が閉じていることには変わりないと思う。
国内のファンタジー文学はライトノベル、異世界転生に染まっている
オンラインで物語を発表できるところを探していると、幾つも見つかるが、掲載されている作品の98%はライトノベル系か異世界転生なんじゃないかと言っていいくらい、文脈と世界観が固定されている。
おそらく、読む人には「異世界の文脈」「ライトノベルの約束」がインストールされていて、ぱっと見た時にすぐ物語の世界に入っていくことができ、読書エネルギーに対するパフォーマンスがいいのだろう。
私の文学もそれと大して違いないと思っていたのだけど、何かが違う、ということはわかってきた。もしくは、読者にとってはその他多くのライトノベルと私の作品との違い、ひいては私の作品を読むメリットは分かりにくく、であれば読みやすい方を選ぶだろう。
文章をどれだけ研ぎ澄まし、あるいはライトノベル風に書き換えたところで太刀打ちできるものではなさそうだ。自分がエネルギーを使うのはその方向性じゃない気がする。
まずライトノベルのタイトルからして、もうなんか違うなぁと思ってしまう。「異世界に転生したおっさんが◯◯で△△なスローライフを送ってみた」だなんてもうすでに面白い。私も面白いものを目指しているのに、ライトノベルのノリでは一生書けそうにない……書けそうにない。
物語のゴールを振り返ってみた
35万文字の物語に託したゴールはなんだったか、頭が冷えてきたところで振り返ってみることにした。
「ビジュアライズ(可視化)」という言葉が浮かんできた。
頭の中にあるイメージをビジュアライズするために、物語を描いた。文章で書くということは、ビジュアライズの場所は読者の脳内、ということだ。しかし、文章では受け入れられるのは難しいとわかった。そもそも読んでもらえないのなら、存在すらしていないことになる。
もっとシンプルに考えよう。ビジュアライズがゴールなら、ゴールであるビジュアライズをすればいいのではないだろうか。
つまりは、漫画作品にすればいい。(挿絵、と言うアイデアもあったけれど、挿絵くらいでは状況を変えるのは不可能だと思う。)
言うのは簡単だけれど、絵を描くというのは作家のエネルギー消費が半端ない。30代中盤にさしかかったとき、作ることと共に生きる人生を取り戻したいと思って、絵を描いたり漫画処女作を描いたりしたけれど、学生時代のように溢れるほどに描くというわけはいかなくて、なんか掴みどころがないし大変だなと思っていた。文章で物語を書き始めた時は、効率的で省エネで素晴らしいと感動したものだった。それなのに? またあの面倒くさいことをやりなおす?
でも、それがゴールなんだからしょうがない。もし描けたとしたら、人生で設定したゴールがまた一つ達成するということなのだから。翻って言えば、今やりたいことはもうそれしかない、ということであるのだ。
受け入れられるファンタジー文学の秘訣
自分の作品を世に出すためにファンタジー文学のリサーチをしたところ、あることに気がついた。つまりは文章で世界を再構築するときに、読者があまりに想像できない未知の概念やシンボルを書くと難解になりすぎるということだ。読者が意識的にも無意識的にも知っている材料を使って、新しい物語を作り出すには文学作品はうまくいきやすい。逆に、読者もDALL-Eも描けない程のビジュアルは、人間じゃないと描くことができない。人間のイマジネーションは素晴らしい。
それが証拠に、物語のビジュアライズ化を考え始めて、DALL-Eで試作してみたとき、何回かDALL-Eの限界に達したことがある。

ほかには、「プロンプトに入力した指示から描かれるイラストを、頭の中で思い描いてみろ」と言われたこともある。
そんなビジュアルを私が描くことができるのかって話なんだけど。とりあえずはやってみるしかない。
デジタル絵を描く時のツール
漫画作品を描いていたときに使っていた、CLIP STUDIO PAINTを再度トライしようと思っていて、家には使い方の教本もある。(版元のOGPが表示されないので、AmazonのURLを貼りますが、アフィリエイトはしてません)
クリスタで描くデジタル漫画の基本が網羅されているけれど、専門概念がさらっと説明されていて中級者向けな気がする。
忘れてる使い方もある。漫画を描いていた当時は、作ることの情熱、またクリエイターに戻ってきた喜びが爆発して、吐きそうな勢いで突っ走っていた部分も多かったので、次は、ちまちまやる分基本はしっかり押さえようとパラパラめくっていたら、スカイマークの機内誌の切り抜きが挟まってた。
2021年6月号。東京から故郷に帰ってきたころ、いろんなことがツラすぎて、これはもう作るしかない! と考えていたときに目に止まった記事だ。著作権で怒られるまで全文を掲載しておく。

要約すると、「漫才」という一つの業界のなかでもいろいろな土俵があるように、自分の土俵を見つけて、そこにフォーカスして勝負をかけよう、という内容だ。「プロとアマの違いは、目の前にお客さんがいるかどうかにある」という言葉も重い。
じゃあいったい、私の土俵はどこにあるのか。
38歳でやっと、圧倒されるだけだった人生の意味がわかってきた
正直、いままでは「これはなんだろう」という困惑の連続だった。
学校ってなんだろう?
先生ってなんだろう?
友達ってなんだろう?
恋人ってなんだろう?
お金ってなんだろう?
仕事ってなんだろう?
社会ってなんだろう?
社会には理想がある。水準がありステータスがあり、善と悪がある。それを知っていたとしても、一番いい生き方ができないのはなんでだろう?
なんで私は、知識で一番優っていると思われる職業は何かを知っていながら、それに就くことができないんだろう?
お金が与えてくれるものを知っているのに、十分なお金を得ることができないんだろう? そのとき好きな人と永遠に結ばれるわけではないのは何でだろう? 優しく生きることが求められているのに、それができないし、優しい人ばかりでないのはなんでだろう?
本当にわけがわからなかったし、明確に困惑していた。そういったことを考え抜き、自分に許された時間や運命と、それ以外のものとの境界線がだんだんと明確になっていった。
他人には他人に用意された運命や祝福があり、それを奪うことは絶対に許されていない。しかし自分に用意された運命と祝福は、ときに戦ってでも勝ち取っていく必要がある。私の運命と祝福は他の誰にも似ていない、完全にオリジナルでありつつ、世界と調和しているものだ。
シンプルに言えば、自分が好きなこと、好きだという思いは本当に大切にしなければいけない。好きなものが好きだとう自由は、他の誰にも奪われてはいけない。
意味が分かってもそこで終わりじゃない
人生がなんなのかは分からなくもなくなってきた。しかし分かったからと言って、そこで終わりじゃないのがまた難しい。概念で捉えるだけでは済まされない何か……何かが人生でやらなければいけないこととしてソリッドに存在しているのだ。とりあえず行けるところまで行ってみよう。
そんなわけで、次の目標が見えたので、note創作大賞は出品が難しいかもしれない。かように私は有言したことに安心してそこでやり切った気持ちになってしまったりもするので、作品のビジュアライズもどこまでが本気か、自分でわからない。とりあえずはキャラクターを絵にして、第一話分をテスト的に描いてみようと思う。
<告知>
2024年8月8日木曜日朝8時から、漫画エスキャトロギヤのリリースを開始します。
▼あらすじと、メインのキャラクター設定を掲載しました。
▼マガジンをリリースしました。
作品を作り続けるための全努力をマガジンにまとめています。少しでも面白いと思っていただけたら、スキ&フォローを頂けますと嬉しいです。
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