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『指先が嘘をつく夜は』第6章(最終章)ー3:プリズムの夜明け(Prismatic Dawn)【創作大賞2026】#恋愛小説部門

第6章(最終章)ー3:プリズムの夜明け(Prismatic Dawn)

重く長い夜が明けた。あの、獣のような昨夜の美月の声が、俺の耳の奥で何度も再生される。
あんなに、狂ったように泣き叫ぶ美月を抱きしめることしか出来なかった。
医師として、外科医としていくつもの凄まじい現場を、数々の修羅場を見てきた。
血を見ることも浴びることも、痛みで泣き叫ぶ患者も、それを冷静にかつ迅速に対処することが俺の仕事だ。
なのに、何故、美月にはそれが出来ない?俺の指は、指先は、美月の前ではただの男でしかない。もはや、冷静な医師の顔など微塵もなかった。
鏡の前で1つ大きく息を吐く。寝室で眠る美月のおでこに軽く口付けると、俺は病院へ向かった。


あの日から、俺と美月は変わらない日常を続けている。隣で眠り、朝になれば「おはよう」と声を交わす。たわいも無い会話をして、一緒に食事を作り食卓を囲む。そして、お互いに仕事へ向かう…その繰り返しだった。
変わった事は、あれから俺たちはお互いの肌を重ねることは無くなった。
あの狂ったような涙を見てから、俺はもう美月の中へ入れなくなった。
陽介を弔い肌を重ねたあの時、2人の間の境界線と強固な壁は崩壊したと思っていたが、壊れたのは俺の理性だけだった。それどころか、未だ巨大な壁として俺の前に立ちはだかる。陽介、お前はやっぱり俺を赦してはくれないのか…


あの陽介の最期のメッセージが描かれたスケッチブックを見つけた時から、美月の心はまた閉ざされてしまった。俺の声に、視線に怯えるような素振りを見せる。そのスケッチブックは、アトリエの棚に戻されることもなく、未だテーブルの上に置かれたままだ。
真新しかった表紙は、美月の涙で色褪せ、ページの所々は波打つようにたわんでいる。
閉ざされた美月の心をまた解くには、どうしたらいいのか俺はずっと考えていた。

『…陽介を還しに行かないか?』
その日、俺は当直室のデスクから美月にLINEした。
『分かりました』
たった一言、事務的な返信が届いた。拒絶されるのを覚悟で送ったが、その返事はあっさりしていた。
その言葉からは、何の感情も感じられない。ただ、美月の心の傷が深く重いことだけを静かに物語っていた。


数日後、俺たちはあの海にいた。陽介の聖地であるこの海に、陽介を還すためだ。
12月の海は、どんよりと暗く淀んでいた。時折、冷たい海風が俺たちの頬を撫でる。
砂浜を2人で歩き、スケッチブックの置き場所を探す。と、その時、2人の影の間に微かに動く黒い影の輪郭を俺の目が捉えた。
…陽介か、俺は直感的にそう感じた。美月の背中に向けて声をかける。

「ごめん、美月。ちょっと、トイレ…」
振り返った美月の何で、今?という視線を交わすように、
「……限界なんだ、ごめん」と、いつかの台詞を言いながら足早にその場を離れた。

美月の視界の死角に入る防波堤の影に立った瞬間、先ほどの黒い影が俺の隣に並んだ。
…陽介だった。自分と同じ顔、同じ背格好。けれど、生身の体温を持たないあの頃のままの陽介が、静かに波打ち際を見つめている。
俺の喉が、ゴクリと鳴った。
かつてあの個室で、亡き陽介の怨念に怯えて放った言葉が脳裏を駆け巡る。
『俺の覚悟を全て見届けろ。お前の遺した呪縛の中に美月は一歩も入れさせない。お前のこの泥沼から、必ず美月を引っ張り出してやる』
あの時の、お前に向けた宣戦布告…『臨むところだ』のその答え…

「…俺の、覚悟を笑いにきたのか」
低く呟くと、陽介の幻影がゆっくりとこちらを振り向いた。その表情は、怒るでもなく、馬鹿にするでもなく、ただこの海のように穏やかだった。
陽介は何も言わない。ただ、ゆっくりと自分の右手を持ち上げると、その手を俺に差し出した。
その指先が握っていたのは、1本の古びた鉛筆だった。

芯が丸くなり短くなった鉛筆。
…間違いない。陽介が最期に美月の手を描き、“ずっと、君と……”という文字を遺した、まさにあの鉛筆だった。

『僕が描けるのは、あの手だけだ。そこから先は、お前が描け』
言葉にならない兄の視線が、そう語っているように感じた。
陽介は、俺の宣戦布告を、覚悟を馬鹿にして現れたんじゃない。
男として敗北を認め、けれど美月の幸せを誰よりも願い、その未来の続きを、同じ女性を愛し同じ血を分けた俺に託しに来たのだ。

「ーーお前の負けだ、陽介」
俺はそう言うと、自分の右手を陽介の右手へと重ね合わせた。触れ合わないはずの幻影。なのに、俺の掌には、凍えるような冷たさとそれを上回る兄の魂の熱が確かに伝わってきた。
「…救えなかった…ごめん…」

その言葉に、陽介の手から離れた鉛筆が、俺の指先へと滑り落ちる。
「美月の心と身体は俺が診る。お前が遺した痛みも、罪悪感も、全部俺がこの手で受け止める。…そして、その先の未来は俺が美月と生きる。…良いよな?陽介、いや、…兄さん…」
俺は、初めて兄さんと呼んだ。その鉛筆を強く、壊さんばかりに握りしめると、陽介の唇が、微かにけれど満足そうに弧を描いた。
それは、幼い頃に生き別れたあの頃以来、呼ぶことのなかった名称に『ありがとう』と答えるかのようだった。
その時、強い海風が吹き抜ける。陽介の姿は、引き波の白い泡の中に消えていた。後には、ただ寄せては返す波の音だけが残されていた。

俺は、そっと掌を開く。そこには、あの1本の短い鉛筆が現実の姿で残されていた。


「遅いよ、海斗さん」
砂浜でスケッチブックを大切に胸に抱えた美月が、振り返って微笑む。彼女の目には、今の奇跡は何も映っていなかった。
「ごめん。焦って、場所間違えた」
俺は、コートのポケットの中の鉛筆に指先で触れ、その輪郭を確かめる。
もう、陽介はいない。
一歩一歩、確かな足取りで砂を踏み締めるように、美月の元へと歩み寄る。
「ごめんな。寒い中、申し訳ない。…俺の、身体のプロセスがまた暴走したようだ」
ふふっと、小さく笑う美月の冷え切った指先を、俺は自分の掌で力強く包み込んだ。


海から戻ったアイボリーの家は、ひっそりと静まり返っていた。
陽介を海へ還し、一つの区切りを終えた美月の横顔は、どこか憑き物が落ちたように穏やかで、けれどまだ、触れれば粉々に砕けそうなガラスの危うさを孕んでいた。
アトリエのソファーに腰掛け、ぼんやりする美月を見ながら俺は寝室へと向かう。

クローゼットの扉を開けて、奥にある2段式の引出しの上段をゆっくりと引き出した。コートのポケットから、あの鉛筆を仕舞う。そして、その隣の小さな箱に視線を移す。
ーーそこには、高級なベルベッド生地に包まれた小さな箱。美月へ贈る指輪が入った箱がある。
今日は、12月24日。そう、クリスマスイブだ。
俺は、この日に美月にプロポーズするために密かに用意していた。今日ばかりは、病院のスタッフにも何があっても連絡はしないでくれと言ってある。
このまま、この箱を持って美月の前に差し出せば、これほどロマンチックなことはない。けれどーー

あんなに、過呼吸になるほど激しく泣きじゃくり、傷ついていた美月の姿が脳裏をよぎる。愛しているからこそ、今はこれ以上美月の心の奥深くに踏み込むべきではない。今はただ、傷ついた彼女の心を生かして繋ぎ止めることが先決だ。そのために、今俺がするべきことはーー

俺は、引出しの下段を開けた。そこにあるのは、たくさんの手のひらサイズの四角い滅菌パッケージ。研修医時代に、昼夜を問わず必死に結紮の練習を繰り返した、あの見慣れた極細の青いナイロンの糸。
ーーこれだ!


「美月」
俺の呼びかけに、彼女は静かに振り返った。俺は、ポケットからさっきの医療用のパッケージを取り出した。医師である俺が、人の命を繋ぎ止めるために幾度となく手にしてきた、極細の青い縫合糸。
美月が不思議そうな顔で見つめる中、俺は美月の前に跪きその左手をそっと両手で包み込んだ。
かつて、海の高台で倒れたあの夜。俺は、美月の血をこの両手に浴びて狂ったようにその命を乞うた。あの時から、俺は美月を一生護ると決めていた。

慣れた手つきでノッチを引き破る。中から現れたホルダーから、鮮やかな青いナイロン糸が、スルスルと引き出されていく。長さは45センチほどだ。
本来なら、専用器具を使うところだが、俺はあえて指先だけでその糸を操り、美月の白く細い薬指へと滑らかに滑らせていく。

「これは、オペで使う縫合糸。俺の人生そのものだ。引き裂かれた傷を縫い合わせ、命を繋ぎ止める」
美月の目を真っ直ぐに見つめたまま、俺の指先は、身体に染み付いた正確さで青い糸を操る。
「指輪は、まだ用意しない。お前が本当に、心から俺を選んでくれるその日まで待つ。せめて今は、この糸で俺とお前を繋がせてくれ。お前が遺した痛みも、消えない罪悪感も、全部俺が何度でもこの手で縫い合わせて、繋ぎ止める。だから、その先の未来を、俺と一緒に生きて歩いてくれないか」
視界の端で、極細の糸が一寸の狂いもなく交差し、美月の薬指の根元できゅっと固く、確かな手応えを残して締めくくられた。二度と解けることのないサージカル・ノットの外科医の結び目。

俺は、結び目に添えていた指先を、彼女の震える手に重ねた。
「……1つだけ、約束してくれ」
涙で濡れる美月の瞳の奥へ、俺の本気を、覚悟の全てを刻むように見つめ返す。
「もう、嘘はつかない、と」
陽介の贖罪として、お前を抱いたあの日のことも、強がって1人で傷つくような嘘も、もうお互いに終わりにしよう。俺のこの指先は、二度とお前を騙さない。
その言葉を最後に、俺はハサミで余った糸を静かに切り落とした。


私の薬指に結ばれたのは、冷たい指輪ではなく、鮮やかな青い糸だった。
私の目を見つめたまま、海斗さんの節くれだった長い指先が、まるで踊るように極細の糸を操る。
「…その先の未来を、俺と一緒に生きて歩いてくれないか」
この言葉を聞いた瞬間、私の心が、胸の痛みがすぅっと軽くなるのを感じた。そして、初めて海斗さんの声をちゃんと聞いた気がしていた。
彼は、あえて結婚という言葉を使わなかった。その言葉で、私を縛ろうとしているんじゃない。傷ついた私を繋ぎ止めようとしてくれているんだ。
そして、あの陽介の最期のメッセージ…“ずっと、君と……”のその先を私と生きて歩く覚悟をしている。
なんて深い彼の愛情。その全てが愛おしくて、私の目から大粒の涙が零れ落ちる。

「……1つだけ、約束してくれ。もう、嘘はつかない、と」
海斗さんの声が、ストンと私の耳に落ちた。
ーーああ、私の指先が嘘をつく夜は、今終わったんだ

涙でぐちゃぐちゃな視界のまま、指先に重ねられた彼の手を取る。
はい、と言う返事の代わりにその手を強く強く握り返した。
もう、二度と解けることのないこの青い糸に誓うように。

(了)

#創作大賞2026 #恋愛小説部門


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