ヨシタケシンスケが読めなくなった日
休職前の2ヶ月程度。
ずっと理由不明の体調不良・情緒不安定に陥っており、仕事意外の時間はずっと気分転換しないとと取り憑かれていた。
その時行った、[自分のご機嫌取りリスト]の中には「欲しくても買えなかった本を買う」が多々あり、ヨシタケシンスケの絵本もその中のひとつだった。
当時持っていたのは『あるかしら書店』1冊だった。
なので、まず『りんごかもしれない』を買った。
続けて
・『このあと どうしちゃおう』
・『ぼくのニセモノをつくるには』
・『ころべばいいのに』
・『ぼくはいったい どこにいるんだ』
も買った。(発想えほんシリーズ)
どれも前回の展覧会(ヨシタケシンスケ展かもしれない)時に、予算オーバーで涙をのんだ本達。
全冊プレゼント企画に申し込んで外れた本達だった。
買った時、少しだけ、少しだけ思った程嬉しくなくて戸惑った。
内容はどれも読んだことはあったけど、所持したいと思っていたので、帰宅して絵を追いながら、文字をなぞってちゃんと鼓動が高鳴ったことにほっとしたことを覚えている。
その後、1週間も経たずにそのご褒美の効力が切れた。幸いにも、まだまだ欲しい本はたくさんあった。この頃は、より頭がゴチャゴチャとこんがらがって、活字ばかりの本は目が滑ることが多かったので、またヨシタケシンスケに頼ることになった。
次に買ったのは
『あつかったら、ぬげばいい』
ついでにと、一周本屋を回った時に最新刊である『おしごとそうだんセンター』を見つけた。
その本と目が合った時“買わないと”と思った。
おそらく、今の私に必要な本だと思った。
本を2冊買って、家に帰った。
少し贅沢なクッキーも買って。
部屋は、窓からの光でいっぱいだった。
早速、と本(おしごとそうだんセンター)を開いた。
言葉が追えなかった。
絵本の中の短い言葉が追えなかった。
どうしよう。
大丈夫、落ち着いて。
ページをめくった。
親しみのある、柔らくて面白くて少しだけ哲学的なイラストが文章がそこにあるのに、何ひとつ捉えられなかった。
どうしよう。
どうしようとページをめくる。
嫌だ。どうしよう。
ページをめくって、なにかのページをみた。
(どのページで手を止めたのか憶えてない)
反射的に本を閉じた。
涙が出ていた。
むりだと思った。
どうしよう、もう、無理だ。
寄り添ってくれる支柱が一本、折れた瞬間だった。
もう1冊はこわくて、開かなかった。
その翌週、私は朝突然起きれなくなった。
どうしようとなんでとやっぱりが頭の中をしっちゃかめっちゃかに回ってた。
休職して、実家に帰省して、過眠と不眠を繰り返した。実家の私の部屋にも、本が溢れていた。なぜか、責められてる気がした。何も分からない時間が随分と続いた。
時間が経って、入浴できるようになった。
もう少し経って、顔が洗えるようになった。また少し経って、散歩に出れるようになった。
まだ、文字を追うのは怖かった。
また時間が過ぎて、少しずつ出来るが増えていく。
休日、家族とのドライブ中に本屋併設のカフェに入った。
書店の本の持ち込みができる、カフェだったので、とても久しぶりに本を手に取った。くらげの画集。文章はほとんど読まなかったけどきれいだった。
その帰りに、ヨシタケシンスケとは別の作者の絵本(パンどろぼう)を買った。
まだ、ヨシタケシンスケの本を開くのは怖かった。
パンどろぼうも少し時間を置いてから開いた。読めた。
ゆっくり、恐々、また本を開き始めた。
"まだ無理かな"と"意外といけたな"を繰り返して、休職前に読みたかった本リストが段々と今の私が気になる本リストへと変わっていった。
また、時間が少し経って拠点を実家から一人暮らしへと戻した。
本の圧は感じなくなっていた。
本屋に普通に行くようになって、本を買うようになった。
たぶん、好きは大きなネガティブには勝てないのかもしれない。でも、私はやっぱり本が好きだと思う。何でだろう、好きだ。
落ち込むのも、沈むのも簡単だから、少しでも自身を浮かべうるものの糸を手繰り寄せたくなる。
一度、ほとんどの糸が切れたって、また糸へと手を伸ばさずにはいられない。
だって、震える感動を、海や時代をも飛び越えた知識を、うるさく響く鼓動と高揚感を、音もなく流れる涙の理由を本を通して感じたことがあるから。
今を救ってくれなくても、救ってくれた記憶が愛おしいから。
もし、また本を読むのがしんどくなっても、また思い出したいなと願っている。
ゆっくりだけど、戻ってこれた。
該当本も、最近開けるように。
本の感想については、別の記事にて📖💭
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