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地球(ちだま・地魂) は、魂を乗せる大地

人の喜ぶことは、嬉しいとなる。
(嬉しいという字に、喜ぶが入る)
喜んで頂くことが、ありがたいとなる。
それが愛というものだ。
何を望んでいるかということ、悩んでいるかということ、助けて欲しいということ等々、常にこれ、喜び、優しさ、いたわりというもの、それらが人を引き付ける、「心の箱舟」というもの。

人は皆、縁で繋がる訳であるが、この縁も一つ一つ有り難しと思えば、その様に縁が深くなって来る訳である。
然れども、浅い深いというのは、ある訳であるから、皆深しとなると、一日24時間では、到底足らぬという訳であるから、それも必然だということ。
であるから、自分にとって縁が深しと思う者、それが常に傍におる者であり、何度も出会う者ということになる。
いや、然れども、会う期間も短く、会う回数も少ないけれども、これ、心の持ち次第で、深しと感じる訳である。
これが、愛である。
一度会っただけで、引き寄せられるという縁もあれば、何度会(お)うても、到底、縁が無しという者もおるという訳であり、これ全て仕組みという風になっている訳である。
上手い具合にこれ、神が縁組みしている訳だ。
起こること、常に常に、仕組まれているという風になっている。
この仕組みに、人は乗るしかない訳だ。
何故なら、仕組みは人は起こせぬということだ。
起こそうと思えども、そうはいかぬが、予定は予定、結果は結果となる。
であるから、この世は神の予定通りにいく訳だ。
然しながらも、予定も色々ありて、ここまで悪さをするかなあという風な者、多くなれば、これは、浄めゆくしかないであろうという風になる。
大切なるたった一つの地球、この乗り物しか無い訳であるから、これ、至れり尽くせりで創られた、この地球。
地球も地魂(ちだま)だ。
だから私は、地球のことを「ちだま」と呼んでおる。
魂を乗せる大地ということだ。
住まう所であるからこれ、大事なるが大自然界だ。
なるべくなら、都会の中に暮らしていても、たまには、自然に触れ合うことが如何に大事かということ。
それは、自然界の氣というものを賜わることが、それが心をリフレッシュ、クリーンにさせるということなりよ。
それだけ、清らかな氣が充満しておるなりよ。
それが、至れる善だ。(自然は、しぜん・至善)
人間も本来ならば、至れる善にならねばならぬということだ。

これは、善と申しても、相手にとっては、こと迷惑なこともある訳でありてこれ、なかなかもって人の考え、皆違う訳であるから、余計なお世話となり、おせっかいとなる時もあるなり。

であるから、「人を見て法を説け」と申しておる訳だ。
こと解からぬ者に、理解出来得ぬ者に、幾ら伝えようと思うても、段階というものがある。
受け入れる器というものがある訳でありて、自分と同じ様に思うては、これ、ちと違う訳である。
確かに、神の教えは、正しく素晴らしい訳であるが、聞く耳の持たない様な者に伝えても、いい迷惑となる訳である。
であるから、段々の理というもの、段階、階段だ。
下の段におる者に、神のことを伝えてもこれ、上の段の方にある教えでありても、上段(冗談)となる訳だ。

信じぬ者は、一切受け入れぬ。
無しということになるんだ。
神の世界も、霊の世界も、そういった者たちにとっては、無しだ。
この世で命は終わり、あの世などある訳が無し、となる。
そういう考えの者の中で、ならばこれ、悪さをしてもいいではないか。
やりたい放題、好き勝手放題となって来る訳だ。
残念無念というのは、そのことだ、うーん。
人が悪想念多し時に、メシアを降ろすがこれ、そのメシアの言葉も教えも、縁の無き者、薄き者には、なかなか入らぬものでありて、これ、どこまでもこのメシアも縁で繋がっておる訳で、釈迦にしろ、イエスにしろ、モーセにしろ、他の者たちにしろだ。
一切聞いたことも、何も無いという風に、そういった者たちもある訳でありてこれ、如何に神の教え、メシアを使いては、伝えて貰えることにありがたしという風にならねばならぬ訳だ。

然れども、残念ながら、その三大メシアなる教えも、今となっては正しく伝わっておるかと思えば、そうでは無しということになっている訳でありて、元々メシアたちの申すことは、皆、同じ神を奉りては、自分たちを崇めよなんて、誰一人としていなかったということである。

それでも釈迦を奉る。イエスを奉る。
この様にして、所謂これ、人物信仰では無し。
そのメシアたちが教えを伝えており、その神を崇め奉るのが、筋ということであり、然も、天地創造の主神(スシン)様を、崇め奉っている。
一番の上におわす神様を奉らねば、順番が違うということになって来る。
どの神社もだ。まずは天地創造神だ。
その次に、その奉る神々ということになる訳である。
神を創られたのも、天地創造神の主神(スシン)様だ。
御親(みおや)であられる神様を、まずもって初めに祈り合わせすること。
その次に縁のある神様を崇め奉るこよだ。

どの神を奉るのも、それは自由であるが。
まあ、邪神でなければな。
これは、大事なことであるが、正邪の戦いというのは、神界で起こりては霊界に、そして現界に起こるという訳である。
所謂これは、正神の神と副神の神ということであるが、世代交代という意味がある訳なのである。
もって、今は正神の神が、担当の時代である訳であるが。
もっともっと、「立て分け」という風になって来る。

解かり易いから、ある程度なら、人の心も読める様になって来る。
それは、顔での表情であったり、文章の内容であったり、その波動が解かる訳である。どこまでもこれは、波動だ。
簡単な見分け方は、「光の波動」か「闇の波動」か、白黒と分かれる訳だ。
綺麗な部屋は、光に満ちている。
汚い部屋は闇、澱んでいるという風になる訳だ。
これは、日の神の里で、日神里(ひかり)であるがこれ、太陽信仰を全人類が、今も昔も、これは光で満たされることによりては、全てが浄化も起こりて、綺麗に元帰りして来るという風な「光エネルギー」である。

太陽、今日は快晴だ。
その快晴の空を観るだけで、心洗われるはこれ、「光エネルギー」充満しているからである。
曇り一つ無いというのは、罪穢(ざいえ)が一つも無いという風に、まるで快晴の様な想念界、それを目指すことだ。

曇りが一点も無き、すがすがしい空の様な心であればこれ、人は共にいるだけで、心洗われる様だという風に感じる訳だ。
「光のサロン」と呼べるにふさわしい所にせねばということであるが。

生きとし生けるものは、光を求めてやって来る。
太陽の光が無ければ、どれもが誰もが生きていけぬ。
太陽の光エネルギーには、日の神の波動が入っておる。
であるから、光の氣充満なり、一日に一度位、浴びることが大事となる。
まあ、曇りや雨の日はそうではなくとも、否、太陽は昇っておる。
関係無し。
地上にあまり届かぬ様で、でもこれは、常に常に天候というものは、有難き恵みということである。

異常気象と申しても、異常にならざるを得ない現状があるからで、それは全てカルマが起こした結果である訳だ。
それに影響するは、自らが何かしらこれ、原因があるからである、。
人類共通の罪穢(ざいえ)と申す。
個々の罪穢も、それは個々にあるがこれ、人類共通の罪穢とは、詳しくは「つぶやき天使」だ。
「もういいよ―」の時代になった。
今迄は「まーだだよー」、今は「もういいよー」となった訳だ。
天の扉開かれし時これ、全てがあからさまになる。

そして神の教えは、日神理神示(ひかりしんじ)にて、段々の理にて伝えておるがこれ、根本なるもの、まずもって学ぶべし。

根本なるものが解からねば、奥の教えも伝わらぬということだ。
基本中の基本、「つぶやき天使」第一弾だ。

前にも申したが、万物万霊の御魂(みたま)を、それぞれ伝えていくが、満遍なく伝えていくということだ。

解かるかこれ。
言霊も、色霊も、数霊もという風に、その日その日に、ポンポンと伝えており、これをいずれ、まとめて伝える訳であるからこれ、万物万霊の御魂というのは、生きている御魂であるのだ。

それを生かすことによりて、そのエネルギーを賜わうことが出来る訳だ。
であるから、如何にこれ、そういった御魂を、これは使いようである。
言霊一つも使いよう。
同じことを伝えるにも、相手様に気分が良くなる様に伝えねば、何にもならぬということである。
特に謝る時は、心の底からお詫びすることだ。
形だけ、上辺だけでは伝わらぬ時代である、
感謝を申す時も、心から、「ありがた」しという風に、心の贈り物をする。

そういった、お互い様のこれ、「相手」というのは、良いか?
会いて(おうて)、「あいて」、「おうて」という風にも言うが、出会いての「会いて」、こと自分とは別の者を「相手」と申すが、相手様のことを気遣う事が、やがては自分に還って来る。

各々 結び合い 縁の糸にて出会うなり
これは「結び霊」(むすびたま)と申しては、自分で選べるものでは無い。
これから先も、誰に会うかは解からぬもの。
そして今まで出会(お)うてた者も、また会えるとも限らぬものだ。
その様にして、人は出会っていく。
一つ一つの出会いを、感謝することだ。
良きも、悪いと思うことも。
悪い相手と思えば、これは、浄化の為に出会わせてもらおう、ありがとうと、その様に何でも、ありがとう、ありがとうと思っていれば、幸せに必ずなって来る。
「ありがとう」は、父がおるということだから。

日の大神

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