ボンネットの中身と呪い
最近、新しい環境に身を置くことになった。
無論、それは新たな人間関係の構築を意味していて、他人の“ボンネットの中身”が気になる人間の私は、初めて出会う人たちから色んなことを吸収している。
それぞれの個性に触れ、過去についてお互いに共有しあうことで、その人たちの“物語”がなんとなく見えてきた。
自覚しているけど、他人の“物語”について知りたいなんて、とても歪な感情であって、なかなかヤバいやつだなと思う。
それこそ、朝井リョウさんの「イン・ザ・メガチャーチ」に書かれていたように、私は“物語”に支配されているのかもしれない。でもそれを推し活という枠組みだけでなく、一般社会においても自然と求めてしまっているのが自分でも怖い。。
“ボンネットの中身”という表現をしたのは、オードリーの若林さんだ。
若林さんは、幼少期から自己内省を繰り返してきたうちに自分とはどういう人間か、何が欠点かが分かってきたと。でも、どうやってその欠点を無くしていけばよいのか、向き合っていけばよいのかが分からない。だから、他人の“ボンネット”を開けてその中身を観察することで、その仕組みを知りたいと思うんだと、そうおっしゃられていた。
今まさに、自分はそれなのかもしれない。
若林さんの年齢に比べるとだいぶ早すぎるし、まだ自分に抗って、他人と競争していくべきなのかもしれないけど、それがしんどい。疲れる。
これまでの人生を自分軸で生き過ぎていて、他人に全く目を向けてこなかった分、消耗が激しいのかもしれないし、一方で今は“楽”するために自分軸の形を変えただけなのかもしれないとも思える。
とにかく、今率直に思うのは他人がどんなことを考えて生きているのか知りたいということだ。知ったとしても、すぐさま自分の人生に落とし込めるかというと、ほぼそんなことは無いんだけど、“生息範囲”が自分の想像以上に広大で色鮮やかであることを認識できるだけで、勇気をもらえたりする。それまで見ようともしなかった先の数々の光景がクリアに見えるようになって、自分もそこまで足を伸ばしていいんだと、そう思える。
それは自分の生きる希望になっているし、自分と関わってくれる誰かにもそれを伝えたいとなぜか思ってしまっている。もちろん、それを求めていない人の方が多いだろうし、そんなこと一方的にされても困惑することも分かっている。
私は否定をしない。正確に言うと、否定できるほどの人間ではないと心の底から思っている。だから、他人の“ボンネットの中身”を壊そうとも直そうともしない。本当に見るだけだ。
でも、“持ち主”が困っていたら、“あの車はこういう構造だったよ”みたいに間接的なアドアドバイスを送るようにしている(直接触れてしまったこともあるかもしれない、申し訳ない)。
だって、その車を扱えるのは“持ち主”だけだから。
なのに、現代は地獄みたいだ。
持ち主の意図に反して勝手にボンネットが開けられることもあるし、それでいて部外者が急にいじり出して強制的に修理をしようとしたりする。
SNSなんかのコメント欄は、もう本当に地獄だ。
頼まれてもいない修理業者たちが無限に蔓延っていて、突然開けられたボンネットに群がり、各々望み通りの作業を終えて満足している。こいつらは、今か今かと常に列を作って待っているのではないかとさえ思う。
私は“見る”という作業だけしかやらないし、それで自分や周りを豊かにしたいという対照的な考え方だけど、それでよくないか?でも、その人たちの“ボンネットの中身”を見たわけでもないので、今度見てみたいなとも思う。
話は脱線しまくったが、やっぱり私はシンプルに“知りたい”だけなのだ。
話は戻って、新たな環境は自分よりも年齢が若い人が多く、そういう人たちのボンネットに触れることで気づくことがあった。
それは、誰しもが“呪い”のような存在を抱えているということだ。
この言葉通りに受け取ると怖い印象だが、決してそういうことでもない。
各々の過去において、良くも悪くもそれまでに感じたことのなかった感情が引き出され、現在まで引きずってしまうような出来事のことだ。
私はその“呪い”が多い。そして、呪われていることに気づくのも遅い。
それこそ、ある程度自己内省が完了した時点で“呪い”の存在に気づき、受け入れることができるようになった。でも、完全には消えていないと思う。
だからこそ、今の自分があるのも分かっている。
今回初めて出会った人たちも、そういったものを抱えているようだった。いや、私が勝手にそう思っているだけかもしれないが、間違いなくそれぞれの過去が現在に影響していると思った。先に述べたように、それは良いことも良くなかったことも全部だ。自分もそうだったが、“呪い”に囚われる時間は人生において間違いなく重要で、それをタイムリーに感じている彼/彼女たちは尊く感じた。年齢なんて関係なく、どんな人だって“呪い”を感じているし、向き合っているんだということを知れたのは、自分が一人じゃないんだという勇気をくれた。
自分もちゃんと向き合わないとな、、
自分は本当に“呪い”が多い人間で、気づくのも遅いからその度に深く落ちてしまう。でも、ここ最近は少しずつ解かれて始めているような気もする。
ある種、成長していると実感できる部分でもあるし、今後新たな“呪い”に装具することも暗示させる。
人は、一生そうやって生きていくのかもな。
いやー、
新しい環境は楽しさもあるし色んなことも考えるし、刺激でしかないな。
選択した自分は間違っていなかったと思えるし、今後さらにそう思えるようにしていきたい。やっぱり、“持ち主”に委ねられている。
PS:先日、実写版「秒速5センチメートル」を観てきた。原作のアニメ版はよく“呪い”の映画と言われている。私も主人公と同じような経験をしていて、それこそ同じように最近まで呪われていた。でも、あるキッカケでその“呪い”は解けたし、前に進もうと思えた。
あの映画って、そういう何かを抱えた人が見ると、かなり刺さるんじゃないだろうか。逆に全く共感できない人もいるとは思うけど、その意見も興味がある。
主人公が過去に囚われて身動きできない感じはどこか懐かしく、新たな一歩を踏み出したにもかかわらず、今度は歩の進め方が分からなくなっている自分を表出させた。
よし、またゆっくり考えていこう。
今日もnoteが書けて良かった。
