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【評論】城館の隠者とパリの亡命者。島崎藤村を小説家へ変えた「essai(試み)」という名の生存戦略

「エッセイ」という言葉の地層を掘り下げると、そこには争乱の世を逃れ、城館に引きこもらざるを得なかったモンテーニュの「生存への意志」が埋まっている。

essai(試み)とは、優雅な趣味などではなく、混沌とした現実を生き抜くための切実な実験だ。

島崎藤村がパリの宿舎で掘り当てたこの「知の源泉」は、現代を生きる私たちの閉塞感をも打ち破る力を秘めている。



島崎藤村とモンテーニュとベルクソン〜自由なる試みを超える創造的挑戦と生命の跳躍の一考察


詩とは、随筆とは、そして小説とは何であろうか。まずこの問いから始めてみよう。

島崎藤村((1872〜1943年)は詩人から随筆家となり、小説家になった。藤村の詩は美しい。

「小諸なる古城のほとり          
雲白く遊子(いうし)悲しむ
緑なすはこべは萌えず       
若草も藉(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ) 
日に溶けて淡雪流る・・・」(千曲川旅情の歌)

一般的に見ると、詩と小説は大きく異なる。詩はリズムであり、音楽的である。小説は登場人物の描写であり、テーマがあり、ストーリーの展開がある。詩と小説の中間にエッセイ(随筆)がある。エッセイ(随筆)は詩的であり、かつ登場人物の描写が入ることで生まれてくる。

藤村は詩人から随筆家となり、そこから小説家に羽ばたいていった。

詩もエッセイ(随筆)もテーマは自由である。しかし社会環境や生活環境から生まれる枠組みや制約がある。

私も物書きとして生きたいと思ってきたが、エッセイ(随筆)のテーマが自由であると筆が止まる。自由であることは難しい。自分の感情、体験や経験を書けば良いと分かっていても、そうそう自由にかけるものではない。そもそもエッセイ(随筆)とは何か。テーマが自由であるとは何か。二つの大きな課題が頭の中に押し寄せてくるのである。

エッセイの自由さを考えるには、モンテーニュの人生を巡ることが参考になる。エッセイという文章の形式を発明したのは、16世紀フランス・ルネサンス期を代表する思想家ミシェル・ド・モンテーニュ(1533〜1529年)だからだ。

モンテーニュは、フランス宗教戦争の争乱時代、暴動、虐殺、陰謀がうごめく社会に生きた。ボルドーの高等法院審議官として身を置いた後、ボルドー市長としてペスト流行の困難さも極める中で、カトリックとプロテスタント教徒の仲介に努めている。そのような争乱と混乱の時代に、モンテーニュは審議官と市長を退任後、城館に籠もる。そして「人間とはなにか」、「思考と表現とはなにか」、「社会と世界とはなにか」について思索した。

その思索の中で、「習慣について」、「嘘をつく人たちについて」、「うぬぼれについて」、「友情について」、「子どもたちの教育について」、「むなしさについて」、「後悔について」、「経験について」などのテーマに関する主観的な短い文章を著書『エセー』としてまとめたのだ。

私がモンテーニュの存在を初めて知ったのは、「人食い人たちについて」というエッセイからだった。「人食い人!?」と驚いたことをよく覚えている。

それはフランスのルーアンで王と共にブラジルから連れて来られたカニバル(人喰い人種の意味)3人(ブラジル原住民)にモンテーニュが出会った時の考察だった。

「この新大陸の住民たちには、おのおのが自分の習慣にないものを野蛮と呼ぶのでなければ、野蛮で未開なものは何もないと思う。ほんとうのところ、われわれは、われわれの住んでいる国のさまざまな意見や慣習についての実例と観念以外には、真理と道理の基準を持っていないようだ。その土地にもやはり完全な宗教があり、完全な政治体制があり、すべての事柄についての完璧な完成された習慣がある。」(「人食い人たちについて」『エセーⅢ―社会と世界』)

新大陸の野蛮人を教化するという名目で破壊と略奪を繰り返していく当時のヨーロッパにおいて、このような考えを示す人間がいたことに私は共感した。

ここでエッセーについて、フランス語の辞書を引いてみる。「essai(エセ)」は「essayer(エセィエ)」の名詞形だ。「essayer」は英語の「try」に相当し、「試みる、〜しようと試してみる」という意味だ。つまり、「essai(エセ)」は「試み、経験しようと試してみること」なのである。

要するに、エッセイとは実際の経験そのものの表現であるよりも、経験しようとする「試み」、あるいはテーマを決めて自由に思考する「試み」なのだ。

詩人・小説家である島崎藤村にも多くのエッセイがある。初期の『千曲川のスケッチ』は四季折々の美しいスケッチ(写生・描写文)だ。

スケッチだけでは本来エッセイではない。目にしたもの、経験や体験、感じたことを描写するだけではエッセイにはならない。私のエッセイの筆が止まってしまうのもおそらくその難しさのためだ。

島崎藤村の初期のエッセイはフランス滞在(1913〜1916年)の経験から生まれた。近親相姦の結果、見知らぬ外国に身を隠さざるを得ない逆境の中で、自分自身あるいは現実の枠を超えて、19世紀日本の再考察、日本とは何かという文明論を構築する思考の「試み」が始まった。パリの宿舎に身を置いて遠く自国を振り返る静かな時を見つける。その「試み」から「前世紀を探求する心」などのエッセイが生まれたのだ。藤村はフランスの地で、詩人から随筆家になったのである。

争乱の時代に一線を退き城館に籠ったモンテーニュ、そして異国の地に暮らす島崎藤村、それぞれの逆境の中で自らを鼓舞するように、何かを生み出そうとして、テーマを決めて書く思考の「試み」を行なった。

エッセイとは自由なるテーマの思考の試みである。しかし、自由なるテーマと言っても、個々人の生活環境、人間関係、その時代の歴史的背景など、様々な条件や既存の枠組みによる制限がある。自分のこと、自分の体験や経験から感じたことは個人的条件や社会的な既存の枠組みによって制限されている。現実は不自由なものだ。その枠組みや制限を越えようとする力、それが自由なる思考の力であり、エッセーを生み出す源泉である。エッセイとは不自由なる現実を超えていく創造の試みなのだ。

島崎藤村のエッセイの中に、既存の枠組みや制限を越えようとする創造について次の記述がある。

「人の創造の生長期とは何であろう。そこには時代を導く情熱がある。たゆまず屈せざる心の革新がある。因襲に対する不断の反抗がある。素朴なものの愛がある。真に純粋なものを求めてやまない心がある。」(「生長と成熟」)

藤村には「生の跳躍」という小エッセイがある。「ある人がベルクソンを紹介した文章の中に、「生の跳躍」という言葉を見つけた。」と述べているから、藤村がフランス哲学者ベルクソンの著者を読んだものではないかもしれないが、ベルクソンの言葉から思考したものである。藤村は何のために創作するかを言い表す適当な言葉が見当たらなかった。この「生の跳躍」という言葉を見つけ、それが「創作する時のある気分に近い」と言うのだ。

アンリ・ベルクソン(1859〜1941年)は世界で初めて笑いを哲学したフランス哲学者でもある。藤村には「笑」という日本の笑いを思考したエッセイもあり、ベルクソンには強い関心を持っていたのではないかと思う。

「生命の跳躍(エラン・ヴィタール)」は、ベルクソンの著書『創造的進化』のキーワードである。ベルクソンは困難な負の環境に対応する努力が「生命の跳躍」を生む、それが進化だと語る。それは単なる生命の系統的進化に留まらない。ベルクソンは「生命の跳躍」というのは個人の「創造の欲求のこと」だと述べているように、個人の創造的進化にも対応している。

ベルクソンの一人娘は聾唖だった。「生命の跳躍」とは、彼が聾唖の娘と手話と筆談で過ごしながら、娘の困難な負の環境に対応する日々の努力と芸術的創造の姿を見てきたベルクソンの信念でもあった。

繰り返しになるが、エッセイは不自由なる現実を超えていく創造の試みだ。それはまた負の環境、困難な状況に対応する努力が「生命の跳躍」を生む創造でもある。

現実は不自由だ。人生には多くの思いがけない出来事が起こる。複雑で大変で難しく思えることもある。しかし、その現実に対応する努力が「生命の跳躍」を生む。

こうしてみてくると、自由なるエッセイは不自由なる現実を乗り越える挑戦なのだ。エッセイは自由なる思考の試みによって、「生命の跳躍」と「創造的進化」を生み出す一助ともなる。そのような「生命の跳躍」と「創造的進化」が小説の創作につながっていく。島崎藤村の小説は、エッセイを超えた創造的挑戦と跳躍から生まれたものなのだ。

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