第5話 信じているもの|知覚陰陽道(パーセプション・オンミョウドウ)シリーズ
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窓のない部屋には、壁と床に、魔法陣のようなものが描かれている。映画で見るようなものとは少し違う、幾何学模様と融合したようなもので、少し光を纏った青と黒が絡み合い、陰陽師というより、科学的な模様に見える。
咲月は、魔法陣と同じ、青と黒の幾何学模様でデザインされた和服に身に纏い、微笑を浮かべたまま、美伽を見ている。
「信頼関係は築けたみたいね」
咲月は、美伽の隣でおすわりしているミリを見た。
「今なら、戦えるはずよ。クラベと」
咲月の言葉に呼応するように、喉の詰まりと重みを感じた。枯葉色の腕が首に巻き付き、美伽は首から下げた計量スプーンを握った。
『ワン!』
ミリが静かに鳴いた。曇りのない顔で、頭の中で色濃くなる比較のシチュエーションとは裏腹に、”大丈夫だよ”と言ってくれているような気がして、美伽は小さく頷いた。
巻き付いた腕を引き剥がそうと、左手で枯葉色のそれを掴むと、森に落ちている枝のような感触がした。途端、腕はスルリと、美伽の手を抜けて、背中にあった重みが消えた。
「いなくなった……?」
「まだよ」
周囲を伺うようにして立ち上がった美伽に、咲月は静かに言った。
空気の揺らぎを止めたような沈黙……無意識に呼吸を止めていた美伽は、心を照らしている太陽の光が、暗闇に覆われるような想像が浮かんで、寒さから体を守るように自分を抱いた。
『ワン!!!』
「……!」
ミリが飛び出し、美伽の右側にある何もない空間に噛みついた。ミリが振り返ると同時に、立っていられないほどの重みで、美伽は両膝をついた。喉を詰まらせるような感覚に、石を吐き出そうと咳き込んだが、体は床に沈み込むように重くなっていく。黒い泥が全身を覆っていくような想像が浮かぶ……
「ひっ……!」
美伽を嘲笑うように、枯葉色の顔が、呼吸を感じられるほど近くに見えた。クラベは、ゴブリンのような細い目をさらに細め、美伽の顔を見ながら、尖った爪と四本の指で、喉を撫でたり、掴んだりしている。クラベが触れるたびに、喉の中で石が膨らんでいくようで、生命の危機を感じ取った体が、呼吸を浅く、速くする。
「さつ、き……さん……」
ミリは身構えたまま動かず、美伽は微かに歪む視界で咲月を見た。咲月は、両拳を固く握り、歯を食いしばるようにして微かに俯き、踏み出しかけた右足を止めて首を横に振った。
「さつき、さ……」
喉の石はさらに膨張し、体に覆いかぶさるクラベが、さらに重くなった。
『あんたがテストでこんな点を取るから、お母さん恥をかいたわ』
こめかみのあたりで、刃物が光ったような閃光が走ったように感じた瞬間、古いビデオテープのようなノイズが入った記憶が流れだした。
『あなた、もっとがんばってよ。二宮さんとこの旦那さん、もう課長に昇進したらしいわよ。あなたより2つも年下なのに』
母の声……ママ友とのポジショントークに明け暮れ、優越感に浸れた日は機嫌がよく、そうでない日はため息か愚痴。私はいつも、母の声に怯えていた。名前を呼ばれれば、体はビクリとして、声は小さくなった。そんな私を、母は蔑みで見下ろし、ため息をつき、お母さんが間違ってるならハッキリ言いなさいよと唾を飛ばした。あなたができないのが悪い、だからお母さんは恥をかく……私はいつしか、母の前で言葉を発しようとすると、声をうまく出せなくなった。話そうとしても、言葉はいつも、数歩遅れてやってきた。そう、喉に何かが詰まっていて、声を出せないようにしようとしているように……
誰も助けてくれない。今も……人より劣っている私を助けようとする人はいない……
視界が歪み、周囲から暗闇が覆ってくるように、狭くなっていく。
「……? ミリ……」
2メートルほど離れた場所で、ミリは四肢を踏ん張るようにして、こちらを見ている。動きたいのに動けない、そんなふうにしながら、美伽に巻き付くようにしているクラベを見ている。
クラベがミリを見て、勝ち誇ったように口元を歪めている……そんな想像が浮かんだ。ミリは歯をむき出しているが、動こうとしない。
「ミリ、なんで……」
『式神が力を発揮するには、信頼関係が絶対なの。信頼が契約となり、式神は妖怪を祓う力を得る』
三日前に聞いた、咲月の言葉が浮かんだ。
『その子は、美伽さんの思いを知ってる。積み重ねてきたものを分かってる』
「私の、積み重ねてきたもの……信頼、契約……式神の……」
美伽は、床の息遣いが聞こえてきそうなほど屈んだ体を、両足の親指に力を入れて支えた。そのままゆっくりと上半身を上げて、片膝を上げたところで、喉に絡まるクラベの指を掴んだ。
クラベは笑っている……引き剥がすことなどできはしない、おまえは人より劣っている、何もできはしない……耳元で波紋のように広がった声に、美伽は奥歯を食いしばった。
「私にだって、積み重ねてきたものがある……私にだって……」
クラベの目が見開かれ、笑いは引きつり、美伽の意志を挫くように両手を喉に巻き付けたが、勢いをつけすぎたのか、背中から滑り落ちて、美伽の首にぶら下がるように正面に両足をつけた。
枯れ木のような体の向こうに、ミリが見える。
視線が交差する。
美伽は微かに笑い、頷いた。
クラベが再び背中に這い上がろうとする……瞬間、疾風が突き抜け、ミリの鋭い牙がクラベの体に食らいつき、美伽から引き剥がした。
「はぁ……はぁ……」
美伽はゆっくりと立ち上がり、ミリに抑えつけられて、両手足をバタバタとさせているクラベを見下ろした。
「私はもう、あの頃の私じゃない……あんたなんかに踏みにじられたりしない……!!」
部屋中に声が広がると同時に、ミリは腹を食い破り、クラベは霧が晴れていくように霧散して、視界から消えた。喉に詰まっていた石も、弾けるように消え去り、力が抜けてその場に倒れそうになったところで、咲月が支えた。
「咲月さん……」
涙が頬を濡らし、咲月の腕を掴んだ。
「よくやりきったわね」
咲月は言った。
ミリは、床に座った美伽の足に、頬をこすりつけるようにしている。そっと手を伸ばして、耳の後ろあたりを撫でてやると、ミリは嬉しそうに「ワン!」と鳴いた。
「私、やったんですよね……? 自分で、クラベを……」
「そうよ。美伽さんが自分で、クラベを祓ったの」
「ミリのおかげ……」
「美伽さん自身の力よ。そうでなきゃ、式神は力を発揮できない」
美伽は、自分の体に力が入ることを確認してから、ゆっくりと立ち上がった。咲月も立ち上がって、美伽に笑いかけた。
「すごく、いい顔してる」
咲月は言った。
「まさに、憑き物が落ちたって顔(笑)」
「ふふ、ありがとうございます(笑)」
額から汗が流れ、呼吸はまだ落ち着かない。心臓の鼓動も早いが、少しずつ、いつもどおりに戻っていく……ふと、視界の端に光が見えた気がして、顔を向けた。
何もない。窓がないから、光が差し込むはずもないが、景色が少しだけ、明るくなった気がした。ずっと明度が低かった世界に、光が差し込んだように、明るくなった。
「あれ? ミリは……?」
いつの間にか、ミリは消えていて、美伽は迷子でも探すようにキョロキョロとした。
「そこ」
咲月は、美伽の胸元にある軽量スプーンを指さした。
「ミリは、いつでも美伽さんのそばにいる。見えなくても、いつも」
美伽は、首から下げた計量スプーンを、そっと右手で触れた。少しだけ、熱を帯びている気がする。積み重ねてきたもの、自分だけが知っていること……
「ミリ……」
呟き、込み上げるものを抑えるように、天井を見上げた。
翌日。
遅番で出勤して、忙しい一日を過ごし、帰る頃にはクタクタになっていた。電車に乗り、何気なくスマホを取り出す。指は、無意識ではなく、意識的にSNSを開いた。画面には、キラキラが切り抜かれた写真がひしめいている。
「……」
心が一瞬、波を立てたような気がしたとき、ミリの顔が浮かんだ。左手がそっと、胸元に触れる。
「そうだよね、もう、大丈夫だよね」
口元で言うと、視界に飛び込んできた『和鳴の郷』の広告を見て、微かに口元を緩め、SNSを閉じた。そのまま指を動かし、「そこまでしなくても……」という声に「必要ならまた入れればいいよ」と返して、アカウントを削除してから、アプリの削除ボタンを押した。
『削除しますか?』
という問い掛けに、「私にはもう、必要ないから」と呟き、美伽のスマホから、SNSのアイコンが消えた。
顔を上げると、窓に映る自分の顔が見えた。
疲れてはいる。けど暗くない。
やがて駅に到着すると、新しい日常を始めるように、足を踏み出した。
仕事を終えて、家でクオリアを撫でていた咲月は、美伽からのメールに頬を緩めた。もう彼女は大丈夫だろう……そう思うと、会社の重役を相手にするよりも、大きな仕事をやりきった、疲れと充実が入り混じって、思わず笑みが溢れる感覚が、体に広がった。
膝の上で丸くなっているクオリアを撫でながら、咲月はスマホを操作して、『和鳴の郷』のWebサイトをクリックした。
疲れた心に染み渡る、白くてふわふわしたシロップのような言葉たち。良くないと分かっていても、口にした瞬間に広がっていく甘みが、疲れ切った体に染みていくように、疲れ切った心に広がる、甘美で、ホッとする世界……
巷に溢れている、スピリチュアル系のコミュニティかもしれない。もっと強く誘惑する広告もある。そう、それらと同じ……
「……」
クオリアが、ビクリと起き上がり、ソファの端まで飛んで、伏せの姿勢のまま、上目遣いを向けている。
「大丈夫よ」
咲月は微笑んだ。
クオリアは、ゆっくりと足を踏み出し、咲月の左手に頬をこすりつけてから、再び膝の上に乗って、丸くなった。
『あなたの痛みを取り去る凪が、ここにあります』
咲月は、和鳴の郷のWebサイトを最後までスクロールした。
「光で誘い、闇に沈める……」
呟いて、スマホのカレンダーを開くと、休日の予定に一行書き込んだ。
『和鳴の郷、調査』
窓の外に目を向ける。
月は見えず、ポツポツと、雨が窓を叩き始めた。
クオリアを抱っこして、窓まで歩いてカーテンを閉めると、寝室に向かった。しっかりと、休まなければならない。やるべきことをやらなければならない。そんな気がしていた。これまでの日常が、終わるとしても。
