ウディ・ショウ〜モダン・ジャズ・トランペットの改革者!
みなさんこんにちは。毎日暑いですね。昔テレビでタモリさんが「こう暑いと暑苦しいジャズなんか聴きたくないよ。夏はボサノヴァとか爽やかな音楽が良いよね」とおっしゃってましたが、全く同感です。しかしクーラーの効いた部屋に入るとまたジャズを聴いてるんですよね、ジャズ・ファンの習性でしょうか…。
さて、今回のnoteは演奏の熱さで言ったらジャズ・トランペット界では頂点にそびえ立つ人物ではないでしょうか。ウディ・ショウ、カルト的な人気を誇るミュージシャンです。最初にお断りしておきますが、ぼくはウディ・ショウに直接お会いした事がありません。ですので、今回はTimeless Recordsのヴィム総帥やEnjaのマティアス達から聞いたウディ・ショウ伝説の記録です。
ウディ・ショウ(1944年12月24日生まれ)のミドル・ネームには2つ説があって、一つはウディ”ハーマン”ショウ2世、もう一つは、ウディ”ブラウン”ショウ2世。”ウディ・ハーマン”って出来過ぎな気がしますが、海外の資料にはそう記載されているものも少なくありません。ちなみに『ウディ・スリー』(Columbia)というアルバムには有名なゴスペル・シンガーだった父、ウディ・ショウ・シニア、ウディ・ショウ・ジュニア(本人)、そしてウディ”ルイ・アームストロング”ショウ3世のスリーショットが収められています。息子に敬愛する”ルイ・アームストロング”と付けるネーミング・センスが凄い。同様の事例だと、リー・リトナーの息子でドラマーのウェスリー・リトナーの本名はリー”ウェス・モンゴメリー”リトナーと聞いた事がありますが、間違っていたらゴメンナサイ。

キー・パーソンその1:エリック・ドルフィー
ウディ・ショウの生い立ちについて詳しくは触れませんが、あの独特のフレージングを編み出したのって、おそらくプロデビューのきっかけを作ってくれたエリック・ドルフィーからの影響が強いんじゃないでしょうか。ウディ・ショウの公式初録音はドルフィーの『アイアンマン』セッションで、弱冠18歳の若者がいきなりドルフィーのレコーディングに呼ばれたのですから、それは大きな経験となった事でしょう。ドルフィーも相棒だったブッカー・リトルを失いルームメイトだったフレディ・ハバードをパートナーにしましたが、やはりフレディだとアクが強すぎたのかもしれません。それにしてもドルフィーはいいヤツで、インディアナポリスから出てきたばかりのやんちゃなフレディを自分のアパートに居候させたのはドルフィーでした。1954年にクリフォード・ブラウンが西海岸に長期滞在した時は、クリフォードを自宅に招きピアノでクリフォードの練習に付き合った等々ドルフィーのいい人ネタは尽きません。
そんなドルフィーに見出されたと言っても過言ではないウディが、ドルフィーのプレイに影響を受けないわけがありませんよね。1964年にドルフィーはヨーロッパに長期滞在し、ツアーの最終地北欧公演後パリで新バンドを旗揚げする予定でした。そのパートナーはウディ・ショウで、ヨーロッパへ向かう大西洋を渡る船のチケットを受け取ったウディは意気揚々とニューヨークからパリへ向けて旅立ちました。ところが船が港に着いて最初に聞かされたのはなんとドルフィーの訃報。渡欧組トランペット奏者ベニー・ベイリーが教えてくれたそうです。ウディの困惑ぶりは想像できますよね。帰るお金もなかったウディは、ネイサン・デイヴィスのグループや渡欧組アメリカ人のバンドに参加し糊口をしのぎます。ネイサンはパリで売れてきたので、ピアニストを新たに入れようとなった時ウディは即座に同郷ニューアークの先輩ラリー・ヤングを推薦します。ヤングをパリに招きしばらく活動を共にしますが、ブルーノート名盤『UNITY』の下地はこの頃できていたんですね。
帰国後ウディはホレス・シルヴァーのグループに抜擢されます。今聴いても『Cape Verdean Blues』(Blue Note)のプレイはシビれますね。その後マックス・ローチのバンドやジャズ・メッセンジャーズに参加するなど第一線で活躍したウディですが、残念ながらジャズ・マーケットの縮小もあってそこまで目立ったソロ活動はできませんでした。70年代に入りContemporaryやMUSEと契約、『ラヴ・ダンス』や『リトル・レッズ・ファンタジー』など初期傑作を連発します。そして70年代半ばにジュニア・クック〜ルイス・ヘイズ・クインテットへ参加しヨーロッパでも本格的に活動を開始します。『Ichi-Ban(イチバン)』(Timeless)は是非聴いていただきたい作品!そしてこの頃ウディの才能を見抜きマネージャーとなった女性がいました。マキシン・グレッグ(「テーマ・フォー・マキシン」のマキシンです)というその女性は、すぐ公私に渡りウディのパートナーとなります。
キー・パーソンその2:マキシン・グレッグ
元々コロムビアでブルース・ランドヴァルと仕事をしていたマキシンは、ウディとコロムビアの契約も成立させヨーロッパ・ツアーも成功させるなど敏腕マネージャーとして大活躍しました。コロムビアとの契約について、マイルス休養時の穴埋めで白羽の矢が立ったというのが定説ですが、そこにはマネージャーのマキシンの影の力があったんですね。そしてマキシンとの間にウディ”ルイ・アームストロング”ショウ3世も生まれ、ウディはこの時期が人生で一番幸せな時代だったのではないでしょうか。しかしマキシンはこの後よりビッグなジャズマン、デクスター・ゴードンのマネージャーとなり今度は公私共にデックスのパートナーになります。その微妙な時期にデックスの『ホームカミング』(Columbia)が録音されたと考えると、ちょっと悲しくなりますね。バンドはジュニア・クックが抜けたルイス・ヘイズとのバンドですし…。マキシンはデックスのコロムビア移籍を成功させ、映画『ラウンド・ミッドナイト』の主演仕事まで取ってくるのですからマネージャーとしては有能だったんでしょう。しかし、ツアーのブッキングを行なっていたタイムレスのリアに言わせると、「あの女は毎晩パーティ、パーティで、ウディのツアー最終日のパーティ代も私が払うと言っていたのに結局払わずにデクスターとアメリカに逃げたのよ!!」と憤っておられました。最終日のパーティ代、金額聞いたらちょっとびっくりする位の金額でしたよ…。マキシンはウディと正式には結婚しておらず、デックスとは籍を入れています。だから、まだ幼かった息子ルイ・アームストロングは母親に連れられアメリカに戻り、ウディ”ルイ・アームストロング”ゴードンと更にビッグな名前になりました。
キー・パーソンその3:オランダのヴィヒト夫妻
息子ルイ・アームストロングと離れ離れになり、さらにコロムビアとの契約も無くなった失意のウディはそのままオランダに残りヴィヒト家の居候となります。その頃の話をリアに聞くと「ハード・タイム」としか答えてくれませんでした…。一日中ウディ・ショウが暗い顔で家にいたらそりゃ滅入りますよね。コロムビアの契約が無くなったのはウィントン・マルサリスに追い出されたという話を聞きますが、実際はレーベルとの契約は先にアルバム何枚、と決めて契約するのが一般的で、ウディの契約はたまたま5枚と決まっていたのだろうと推測します。ウディはウィントンの事をとても可愛がっていて、ライヴにもよくシットインさせていましたからね。もう一つ、モザイクのボックス・セットでマイケル・カスクーナが「ウィントンはウディが推し進めたソロにおけるインターヴァルの幅を4度の跳躍からオクターヴにまで広げた」みたいな事を書いているんですが、ちょっとそれは理論的に関係ない話かな、と思います。オクターブに広げたところで同じ音ですから…。話が逸れましたが、ヴィム総帥にとってもミュージシャンをただ遊ばせておくわけにはいかないので、この時期ツアーを組んでいた東欧のテナーマン、トーン・ヤンシャのバンドにゲストで参加させるなどウディをフィーチャーした作品をいくつか録音しています。
復活からの悲劇的な結末
そして1985年に名門ブルーノートが復活し、ウディ・ショウにもお声がかかると久しぶりにニューヨークに帰還します。その後マウント・フジ・ジャズ・フェスティバルで来日、フレディ・ハバードとの2管で「月の砂漠」などを演奏、日本のジャズ・ファンにウディ・ショウの存在を再びアピールする良い機会になったのです。フレディとの2トランペット・チームはビバップ時代に結成されたハワード・マギーとファッツ・ナヴァロを再現したもの、とアナウンスされてましたが、あのチーム、実は日本の木全プロデューサーが制作したタイムレスのアルバム『タイム・スピークス〜クリフォード・ブラウンに捧ぐ』(ベニー・ゴルソン名義)の方が先だったってご存知ですか?おそらくですが、最初はゴルソン〜ハバードのアルバムにするハズだったんでしょうが、家にいるからウディも入れてくれとタイムレス側から提案したのではないでしょうか。オレ様フレディは人の事を滅多に褒めませんが、ウディ・ショウだけは「ヤツは本当にすごい。バップ・トランペットの歴史を変えた唯一のイノヴェーターだ」とまで言っているのですからよほど認めていたのでしょう。
ウディ・ショウは本当にミュージシャンからの人気が高いミュージシャンズ・ミュージシャン。ぼくのアメリカ時代の先生、リン・ビヴィアーノもウディ・ショウの大ファンで、ある時ビッグバンドのフィーチャード・ゲストとしてウディがやってきた時の話。「やあウディ、ぼくはあなたの大ファンです。どうしたらあんなプレイができるんですか?」と聞くと「オレ自身どうやっているかわからないんだよ」…なんでやねん!とW杯解説の本田圭佑ばりのツッコミをしたくなりますが、説明するの面倒だったんでしょうかね。。先日こちらで記したスコット・ハミルトンに聞いた話も面白かったです。
あまり話題にならないですが、ウディ・ショウのバンドからはスティーヴ・トゥーレやオナージェ・アラン・ガムス、マルグリュー・ミラー、ヴィクター・ルイス、カーター・ジェファーソンら多くの名手達が巣立っています。新人登竜門的なバンドとしてはこの時期のアート・ブレイキーやベティ・カーターらのバンドと肩を並べる、いやそれ以上だったかもしれません。ヴィクター・ルイスはウディの事を今でも尊敬していて、今はあんなにハードなライヴを毎日なんてとてもできないよ、とおっしゃっていました。ウディのトリビュート・アルバムを作ろうと盛り上がったんですが、例の感染症の時期を挟んでしまいタイミングを逸しました…。
ウディは1989年2月にブルックリンの地下鉄ホームから転落し左腕を失ってしまいます。視力をほとんど失っていたため、と言われていますが、その原因はメンタル的なものも多分にあったのではないでしょうか。これは聞いた話で真実かはわかりませんが、当時アメリカで流行ったエイズ・シンドロームだったのではと言われています。自分はエイズではないのに、エイズにかかった(当時は治療法もない不治の病)と思い込みメンタルがやられてしまう人の事を指す言葉ですが、その話をリアにしたら「あり得るわね」と。この頃はわかりませんが、若い頃は薬局に売っていないお薬も常用していたようですし、その影響がなかったとも思えません。合併症で1989年の5月に亡くなってしまうウディですが、ジャズ界最大の悲劇とスコット・ハミルトンは言っていました。
ウディ亡き後のレガシー
文中何度も出てきた息子ルイ、これはジャズマン子息あるあるなんですが、彼もニューヨークでラッパーを目指していましたが残念ながら売れなかったようで、今はウディ・ショウのレガシーを残す事に力を注いでいます。マキシンは近年自分の半生を綴った伝記本を出版したんですが、話題にもならなかったですかね。それと東京のウディ・ショウ研究会(勝手にそう名乗っています)の本拠地は新宿ゴールデン街にあるジャズとウィスキーのバーUISCE(ウィスカ)さんです。マスターが大のウディ・ショウ・ファンで、今年の4月にタイムレスのヴィヒト夫妻をお連れしウディ・ショウ・バーとしてタイムレス公認(?)となりました。ウディの濃いプレイを聴きながら至高のウィスキーをいただく、そしてウディについて熱く語るウディ・ショウ・ファンにはたまらない空間です。ファンのみなさん、今度新宿UISCEさんでウディ・ショウについて熱く語りませんか?
もう一つウディ・ショウ関連で告知があります。8月1日(土)に仙台のお隣多賀城でウディ・ショウのトリビュート・ライヴを行います。仙台在住のトランペット奏者山下一郎くん(大のウディ・ショウ・ファン)のカルテットにお呼ばれしたので久々にコンボでトランペット吹いてきます!「Moontrane」「Sweet Love Of Mine」をはじめウディ・ショウ名曲を2トランペットで吹きまくるライヴ、お近くの方は是非お越しください!まだお席、若干残っているそうなので、興味ある方はDMください。どうぞよろしくお願いします!
イチバン!
マウント・フジでの雄姿!
デクスター・ゴードン / フライド・バナナ(アルバム『ホーム・カミング』)最強のウディ・ショウが聴けます
