『「おかえり」と言えないまま』
― 帰ってこないと分かっていても、それでも待ち続けた ―
庭の隅にある鉄のベンチは、すっかり錆びてしまっている。昔は黒くて、座るとひんやりしていたのに、今は触るとざらついて、手に赤い粉がつく。
あたしは、ときどきそこに座る。ここに座ると、どうしても思い出してしまう。航(わたる)のことを。
「秋になったらさ、遠くへ行こう」
あの人は、そんなことをよく言ってた。どこか現実離れしたことを、当たり前みたいな顔で。あたしはいつも、「そんな余裕あるの?」って笑ってたけど、本当は少しだけ信じてた。
あの頃は、まだよかった。戦争は続いていたけど、ここまでひどくなるなんて思ってなかった。町から男の人がいなくなって、配給はどんどん減って、夜になるとサイレンが鳴るのも当たり前になっていった。そして、航のところにも来た。あの紙一枚で、全部が決まる。
出発の前の日、航は昔みたいに言った。「ちょっと、歩いてくる」あたしは「うん」ってだけ答えた。引き止める理由なんて、もうどこにもなかったから。
航は九州の航空隊へ行った。手紙は何通か届いた。どれも短くて、余計なことは書いてなかった。でも、あたしには分かった。「今、急降下の訓練やってる」その一行で十分だった。それって、そういうことだよね。
正式には志願ってことになってるけど、そんなのあってないようなものだ。断れる空気じゃない。断ったらどうなるか、みんな分かってる。
ある日、一度だけ帰ってきた。久しぶりに会った航はすごく痩せてた。頬がこけて、手も骨ばってて、ちょっとびっくりした。「食べ物、全然足りないんだよ」そう言って笑ってたけど。
あたし、少しだけ残してたお米を炊いた。本当は自分の分だったけど、全部出した。「うまいな」そう言って食べる顔が、なんだか昔と同じで、それが逆につらかった。
夜、灯りを消したあと、航がぽつりと言った。「……怖いよ」一瞬、何も言えなかった。「でもさ、逃げられないだろ」その言い方、あたしにじゃなくて、自分に言い聞かせてるみたいだった。あたしは、ただ隣にいた。手も握れなかったけど、それでも離れたくなかった。
出発の日、空はやけに青かった。基地には同じくらいの年の人たちが並んでた。みんな、無理して笑ってるのが分かった。
順番に飛行機のところへ行く。航の番になって、あたしの方を見た。「名前、呼んで」そんなこと言うなんて思ってなくて、ちょっとだけ戸惑った。でも、すぐに呼んだ。「航」声が震えてたと思う。もう一回呼んだ。「航」何度も、何度も呼んだ。
航は小さくうなずいて、それから機体に乗り込んだ。エンジンの音が大きくなって、風が巻き上がって、土が舞って。飛行機は、そのまま空へ上がっていった。
あたしは、ずっと見てた。小さくなって、点みたいになって、それが見えなくなるまで。
帰ってこないって、分かってた。
後で届いた紙には、日時と場所と、戦果が少しだけ書いてあった。それだけ。遺骨もないし、何も残ってない。あるのは、記憶だけ。
終戦の日、あたしは庭にいた。放送の声は正直よく分からなかった。でも、「終わった」ってことだけは伝わってきた。
じゃあ、何だったの。あたしの中で、それだけがずっと引っかかってる。
航は帰ってこないまま、世界だけが続いていく。それが現実だった。
それから何年も経った。町は少しずつ元に戻って、食べ物も普通に手に入るようになって、みんな前に進んでいった。でも、あたしだけは違った。時間が、あの日で止まったまま。
ベンチに座る。ぎしっと音がする。一人でいると、必ず思い出す。あの夜の声。「怖いよ」って言った声。あの朝の背中。振り返ったときの顔。空へ消えていった、あの影。
「一人でいるときに、あんたのこと思い出す」それだけが、残ってる。
桜が咲く頃になると、毎年思う。もし戦争がなかったら、とか。もし航が行かなかったら、とか。でも、そんなの考えても意味ない。帰ってこないものは、帰ってこない。
それでも、あたしはここにいる。このベンチに座って、同じ景色を見てる。
気づけば、あたしもずいぶん歳を取った。手は皺だらけになって、歩くのも少し遅くなった。それでも、不思議と覚えてる。あの日の空の色も、あんたの声も、ちゃんと。
忘れようとは思わない。でも、忘れられないってわけでもない。ただ、消えないだけ。あんたのことが。
きっと、このまま。あたしが息を引き取るその時まで、あんたのことを思ってる。
夕方、風が吹く。たまに、隣に誰かいる気がする。もちろん、誰もいないんだけど。それでも、つい言ってしまう。
「おかえり」
返事なんて、あるわけないのに。それでも、この言葉だけは、最後まで消えない。
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