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この期に及んで、純文学と大衆小説の違いをかんがえる


今日純文学と大衆小説の区別なんてほとんどされていません。けれどもあえてこの2つのジャンルの違いについて書いてみたいです。両者の区別からぼくの考える「文学」まで書くことを目指します。「大衆文学」とも言われますが、この記事では文学と区別して「大衆小説」とします。


◆曖昧な純文学

純文学の定義は非常に曖昧です。なにが「純」なのか、不純な文学があるのか。一般的に純文学は芸術性を重視する作品で、大衆小説は大衆によく読まれるエンタメ重視の作品と考えられています。しかし後で書くように、この定義にはちょっと無理があります。

読者さんの思う、これこそ純文学という作品は何でしょうか。『源氏物語』、『こころ』、『レミゼラブル』、『罪と罰』などなど……色々答えが返ってきそうです。驚くことに、これらの作品ですら純文学ではないなんて意見があります。

夏目漱石の作品はほとんどが新聞小説でした。もちろん明治時代、マンガは市民権を得ていません。人々は新聞小説を娯楽作品として読んでいました。ある意味いまの小説以上に大衆的です。

ユゴーの『レミゼラブル』も大衆にとても読まれた作品です。当時の労働者は低賃金でこき使われているので、本買う金なんかありません。そのため何人かでなけなしの金を集めて買って、回し読みしたと言われています。『レミゼラブル』はそれほど面白かった。これも大衆的な小説といえるでしょう。

あるWEB記事で『源氏物語』は当時の人々によく読まれて、かつ純文学という定義が生まれる以前の作品なので純文学ではないと書かれていました。日本を代表する文学作品『源氏物語』ですら純文学ではないという意見もあるほど、純文学という定義は曖昧です。


◆私の文学観


ぼくが思う、大衆小説とはパズルのように作者が計画したプロットにきっちりはまるよう設計していく作品です。対して、文学とは作者のプロットから逸脱して、登場人物が予期せぬ動きをすること。そして人間の多面的な感情を描くことです。その点でぼくは『源氏物語』も『こころ』も『レミゼラブル』も『罪と罰』も文学と思っています。


まず『源氏物語』は当時の人々によく読まれて、かつ純文学という定義が生まれる以前の作品なので純文学ではないという意見ですが、納得できない定義付けです。当時の人々といってもごくわずかな貴族(インテリ層)にしか読まれていません。それに作品や人物が後から定義付けされる例なんてザラにあります。

例えばキルケゴールは実存主義の先駆者と言われますが、キルケゴールの生きた時代に実存主義という概念はありませんでした。後の時代のヤスパースやサルトルなんかが、キルケゴールを実存主義的だと定義付けました。


◆文学は作者の思い通りにいかない

肝心なのはそこではなく、光源氏を始めとする登場人物が紫式部の操り人形であるかどうかです。操り人形であれば登場人物の顔は極めて一面的です。書きたいプロットから逸脱しないよう作者に制御されているからです。作者の手から離れた登場人物は多面的な表情をします。ここに文学であるか、娯楽小説であるかの違いがある、そう思います。

例えば一方で家族の死を嘆き悲しみ、他方で遺産の勘定をしている人がいたとします。純文学的にはどちらも本音です。それが学校の国語のテストではどちらかの感情が建て前で、本音は1つであるかのように選ばせます。「問い:遺族の本音はお金がほしいこと、○か×か」みたいに。

文学作品で、登場人物が1つの純粋な感情のみで動いていたら2流とぼくは考えます。優れた作品になればなるほど、登場人物の感情は複雑に絡み合い、多様に読めます。彼は悲しんでいるのでしょうか、喜んでいるのでしょうか。ナンセンス。彼は悲しみながら喜んでいる。このことがわかると文学作品は面白くなります。

この辺がいわゆる純文学と大衆小説の違いかなと思います。つまり大衆小説の定義は大衆に広く読まれた娯楽小説ではないし、純文学の定義は作者がエンタメ性より芸術性を重視した小説ではないのです。



◆最後に

年を取ると面白くなる作品があるとよく耳にします。人間の感情が単純ではないことを痛感するからでしょう。最近ぼくも実感します。思春期には人の好意を素直に感謝できませんでした。
「この人の好意の背後に打算があるのではないか。だとしたらこの人は偽善者だ。そうに違いない、この偽善者め!」そう思っていました。これを中二病といえばそれまでですが、とにかく純粋でした。
しかしどんなに善意溢れる行為をしたとしても、無意識で小さじ1杯くらいの打算があります。人間には心の奥に1つの本音があるという幻想から引き剥がされ、生まれた悲しみが文学をより深く面白くさせると思うのです。

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