主体性と自発性の違いを考える
主体性についてずっと考えていた。
私は以前から、主体性とは「自由に好きなことをする力」ではないと思っている。
主体性とは、自由に伴う責任を引き受ける力である。
だから私は、「自発性」と「主体性」を区別して考えている。
自発性とは、自分から動くことである。
やりたいからやる。
やりたくないからやらない。
反対する。
文句を言う。
これらも、自分の意思で行っているなら、自発的な行動である。
しかし、それだけでは主体性とは言えない。
主体性になるためには、自分の行動をコントロールし、その結果を予測し、その結果を引き受ける必要がある。
たとえば、
「この学校はおかしい」
と言うことはできる。
しかし、
「だから私はこう変えようと思う」
と動く人は、少し減る。
さらに、
「うまくいかなかったら、その責任も引き受ける」
という人は、もっと減る。
主体性とは、単に自分で選ぶことではない。
自分で選び、その結果を引き受けることである。
最近、もう一つ考えていることがある。
主体性とは、責任の範囲を少しずつ広げていくことでもあるのではないか。最初は、自分の責任である。
自分の行動に責任を持つ。
自分の選択に責任を持つ。
自分の約束に責任を持つ。
そこから少しずつ、責任の範囲が広がっていく。
家族のこと。
仲間のこと。
職場のこと。
地域のこと。
自分一人の得だけではなく、自分が属している共同体にとって何がよいのかを考えるようになる。
さらにその先には、未来への責任がある。
今の自分にとって都合がよいかどうかだけではなく、未来の子どもたちや社会にとって何が残るのかを考える。
もちろん、すべてを背負えという話ではない。
むしろ、すべてを背負おうとすることは危うい。
しかし、自分とは無関係だと切り捨てず、自分に引き受けられる範囲を少しずつ広げていく。
そこに、主体性の成熟があるのではないかと思う。
教育界では、よく「子どもの主体性を育てたい」と言われる。
それ自体は大切なことである。
けれど、ふと思う。
私たち大人は、主体的に生きているだろうか。
文句は言う。
批判もする。
不満もある。
それ自体は悪いことではない。
問題は、その後である。
自分で動くのか。
結果を引き受けるのか。
共同体をよりよくするために、自分にできる責任を負うのか。
主体性とは、自由を求める力ではない。
自由に伴う責任を引き受ける力である。
もしそうだとするならば、主体性を学ぶ必要があるのは、子どもよりも、まず私たち大人の方なのかもしれない。
