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【創作小説】ミナとカナタ 第7話|歌わない朝



波の音が、二人の間に戻ってきた。

ミナは手の中のイヤホンを見た。

今日は、まだ歌っていない。

歌うためにここまで来た。
少なくとも、いつもならそうだった。

イヤホンをつけて、曲を流して、周りに誰もいないことを確かめる。

それから歌う。

ずっと、その順番だった。

でも今日は、少し離れたところにななしさんがいる。

前ほど怖くはない。

それでも、歌えるかと言われれば、話は別だった。

ミナはイヤホンケースを開けて、また閉じた。

その様子を見ていたななしさんが言った。

「今日は歌わないんですか」

「まだ迷ってます」

「またですか」

ミナは顔を上げた。

「またって何ですか」

「前も決めてなかったので」

「覚えてるんだ」

「まあ、それくらいは」

さらっと返されて、ミナは少し笑った。

「ななしさんって、意外と細かいですね」

「そうですか?」

「もっと何も気にしない人かと思ってました」

「それ、どういう印象なんですか」

「なんとなくです」

「雑ですね」

「あ、そういうこと言うんだ」

前より、会話が続く。

それが少し不思議だった。

最初の朝は、言葉を探す余裕なんてなかった。
二度目も、何を話したのか思い返せばほとんど中身がなかった。

でも今は、沈黙が来ても、それほど困らない。

無理に何かを埋めなくても、次の言葉が少し待てる。

ミナはもう一度イヤホンを見る。

「歌いたいんですけどね」

口から出た。

ななしさんがこちらを見る。

「でも、人がいると、なんかダメで」

言ってから、少しだけ笑った。

「変ですよね。歌いたいのに、人がいたら歌えないって」

「別に変じゃないと思いますけど」

すぐに返ってきた。

「そうですか?」

「やりたくても、できないことってありますよね」

その言い方が妙に普通だった。

ミナは少しだけ首を傾ける。

「ななしさんにもあるんですか」

「ありますよ」

「意外」

「そうですか?」

「何でも普通にできそう」

「それはだいぶ買いかぶってます」

「でも、何でも自分で決めそうですよね」

ななしさんは一瞬だけ考えてから、首を横に振った。

「いや、逆です」

「逆?」

「自分で決めるの、あんまり得意じゃないんですよ」

ミナは思わず彼を見る。

「ほんとに?」

「ほんとです」

「全然そう見えない」

「よく言われます」

少しだけ笑った。

今度はミナにも、ちゃんと笑ったのがわかった。

「人に決めてもらう方が、慣れてるかもしれないです」

「それ、楽じゃないですか」

「楽ですよ」

「じゃあいいじゃないですか」

「まあ……そうなんですけどね」

返事が少しだけ遅れた。

ミナは、その続きを待った。

けれど、ななしさんは何も言わなかった。

仕事のことなのか。
家族のことなのか。
それとも、もっと別の何かなのか。

わからない。

だから、聞かなかった。

代わりにミナは海を見る。

「でも、ちょっとわかるかも」

「何がですか」

「誰かに決めてもらった方が楽なとき」

ミナはイヤホンケースを指先で転がした。

「今日とか」

「今日?」

「歌うかどうか」

口にしてから、自分でも少しおかしくなった。

「歌えばいいのにって思うんです。せっかく来たんだから」

「はい」

「でも、歌えないなら帰ればいいとも思うし」

「はい」

「どっちにしても、自分で決めると、なんか負けた感じがするんですよね」

言ったあと、ミナは眉を寄せた。

「……今の、すごい面倒くさい人みたいですね」

「ちょっとだけ」

「ちょっとなんだ」

「全部否定すると嘘になるので」

ミナは吹き出した。

「そこ正直なんですね」

「わりと」

笑いが落ち着いてから、少しだけ静かになった。

波が来て、引いていく。

ミナは、今度はそれほど沈黙を気にしなかった。

やがて、ななしさんが言った。

「じゃあ今日は、歌わなくていいんじゃないですか」

ミナは顔を上げた。

「え?」

「誰かに決めてもらった方が楽なんですよね」

「……まあ、言いましたけど」

「じゃあ、今日は歌わない」

あまりにも普通に言われて、ミナはしばらく彼を見た。

励ますでもない。

大丈夫だと言うでもない。

歌ってほしいとも言わない。

ただ、頼まれたから一つ選んだみたいだった。

「そんな簡単に決めます?」

「自分のことじゃないので」

「ずるい」

「そうかもしれないですね」

ミナはまた少し笑った。

それから、イヤホンをケースに戻した。

ふたを閉じる。

今日は歌わない。

そう決まってしまうと、不思議なくらい楽だった。

「……ほんとに楽だ」

「でしょ?」

「なんでちょっと得意げなんですか」

「人に決めてもらう側は長いので」

それ以上、ななしさんは何も説明しなかった。

ミナも聞かなかった。

自分にも、まだ話していないことがある。

どうして人がいると歌えないのか。
どうして髪に少しだけ色を足すのか。

だから、相手にも同じくらいの余白があっていい気がした。

ミナは海を見る。

今日は歌わない。

でも、ここまで来たことまで無駄になるわけではない。

隣ではなく、少し離れたところに、ななしさんがいる。

二人とも、自分で決めるのがうまくいかないことがある。

理由はまだ、ほとんど知らない。

それでも今朝は、それくらいで十分だった。

波の音だけが、静かに続いていた。

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