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「羽ころも、春ころも」#12

(画像: 日本橋より室町通り夜の美観 昭和初期 絵葉書 作者所持)


 
 伊織は、澟を見受けした事がはたして彼女にとってよかったのか、ここにきて自責の念に駆られた。

 自分のエゴイズムで澟を利用したのではないか。


 
 
 澟と共に過ごす中で欲情したことは幾度もあった。 

 風呂上がりに濡れた黒髪の下から覗く鎖骨を捉えたときや、魘され夜中目が覚めた時に、そっと上から見つめる澟の寝巻きから胸の割れ目がのぞいた時。鏡台の前で髪を解き櫛をいれているときに映る無防備な表情をみると、カァっと喉元が発火した。
 何度身体を引き寄せて抱きたいと思ったことだろう。


 その度に目を閉じて自己を冷静に落ち着かせる。

 まだ…………まだだ。


 お互いまだ一線を超えていない。
 この一線とは、己の弱さをみせていない、本性を吐露していないという一線である。
 どこか他人行儀だし、遠慮をし合っている。

 夫婦というものはこういうものか。分からぬ。


 共に暮らしてまだひと月だが、澟がここまで礼儀正しいとは思わなかった。初対面から擦れていない雰囲気はあったが、元来の彼女の性分であろう控えめな態度を愛おしいと思った。
 躾に厳しい家だったとは聞いた。ただ子を家を継ぐ道具にせずに産婆学校に通わせたことをみても、娘さんを大事にされていたご両親だったのだろう。
 四年間身を沈めても芯は譲らぬ強さを澟に感じる。

 廓にいる限り、夢は叶わぬとみて見受けをした。

 廓女はその世界を知ると、性に依存してしまい堅気になっても倒錯した男女関係を送るか、再び恋しさで廓や酌婦、玉の井なぞに舞い戻るなどと聞くが、澟をみているとその隙がない。
 反対に「もう懲り懲り」という嫌気や男への失望が強くこびりついているように思えるのである。その点では出て良かったとは思う。


 しかし今のままでは、いつ空襲が落とされるかしれぬ危険を感じながら自分の身の世話をさせて不憫の方が勝るのではないか。

 疎開を拒み、念願の産婆も踏み出せぬ澟の胸中を思うと、命こそ守ってやりたいと感じるが、彼女が死の恐怖に直面しているとき、職業柄自分は側にはいてやれないだろう。

 自分もまた男である。
 廓に足を運ぶものと変わらない。肉欲もある。
 結婚したなら速やかに事を起こせばいいものを、躊躇う気持ちが勝る。

 情けないことだが、白い肌を貪る客たちと同列に見られるのが嫌なのだ。なんと幼い性根であろうか。同じ男であるのに。失望されることに不安があるのだ。
 強引に引き寄せば、澟は淑淑と従うだろう。けれど心はどうか。空虚のまま抱き合うことは虚しさに襲われないだろうか。

 その疑問がある限り、自分の本能を解く相手として妻に触れられる身ではないと感じていた。

 だからこそ、彼女が自分を信頼してくれるまで待とうと思った。




 
 東京地方専売局足立工場は、牛田駅と千住の大踏切を挟む広大な敷地に建つ、煙草工場である。

 「朝日」や「敷島」、葉巻では「パロマ」「「ロンドレス」などの多くの銘柄を生産していたが、戦局が厳しくなり原材料や設備機械の深刻な不足にともない資材の代用品や作業の簡素化が図られた。

 澟はハナに連れられ、歩いて十五分ほどで足立工場へ着いた。

 敷地には中央に三階建て鉄筋コンクリートの作業場があり、それをぐるりと囲むように瓦葺きの木造二階建ての作業場が建てられていた。
 木造作業場には渡り廊下が敷かれ、食堂、更衣室、浴室、事務所へとつながっている。
 その周りを六棟の木造倉庫が囲んでいた。


 コンクリート作業場は、一階が両切紙巻煙草、二階は葉巻煙草、三階がパイプ煙草にわかれており、物資不足の今はパイプ煙草の製造は中止されている。

 木造作業場は老朽化が目立ち、歩いてると廊下が窪んでいるところがあり、ぼうっとしていた澟は幾度かつまづいてしまった。
 木枠の窓からも師走の凍えそうな隙間風が吹いていた。

 ある作業部屋が騒がしかったので覗いてみると、出征する工場員の歓迎会をやっていた。

 ハナと同じ、「誉」という紙巻煙草の作業場に入る。

 すると、

「ふぐッ」


 煙草工場独特のヤニのこびりついた強烈な臭いが澟の嗅覚を襲った。


「ううう…………」


 澟は煙管も紙巻もやったことがない。
 夜業で吸わない者はかえって珍しかったが、理由は着物や化粧品と同じく、日常の嗜好品も費用は娼妓の負担となるからである。

 一箱二十〜三十銭でも、毎日十本でも吸っていると、一箱二十本として月に三円以上の出費になってしまう。

 千住遊郭では二時間で三円が平均であった。
 煙草一ヶ月分に相当する。

 しかしその三円をそのまま貰えるわけではない。

 半分は部屋代、もう半分は廓の従業員の懐へゆく。

 しかも部屋代からまた七割を楼主に取られる。
 結局澟に入るのは三割の四十五銭となる。

 その四十五銭から、借金の返済を払わねばならない。
 残りで着物や化粧品、髪結の費用を払うのだ。

 煙草と自分の我慢料がどうしても釣り合わないと思ったので、恐ろしくて買うことが出来なかった。
 朋輩からは「煙草なしでどう憂さ晴らしするんだい」などと馬鹿にされたが、養生である。

 按摩をお願いしたり、精力減退に効く漢方を取り寄せたり、お湯に浸かる。とにかく身体を第一にして大門を出て産婆になることを夢見ていた。


 それが、今や苦手な煙草の工場に入るとは。
 吐き気と眩暈を我慢しつつ作業内容をきくが、頭に入らない。
 「慣れ……慣れよ……」と自分に言い聞かせる。


「おい、ちゃんと聞いとるのか?」


 ユラユラ揺れる視界の奥で、頑固そうな監視員の出来高や軍への納品といった説教が聞こえているが、どんどん五感が遠のいてゆく。

 連日の空襲警報で、あまり眠れていない。
 敵機は夜中にやってくることが多く、警報の度に壕へ避難する毎日だ。


 澟は吐き気と眩暈で意識が遠のきつつも、劣悪な環境下で働いている女工たちをみた。

 作業場の女性たちは黙々と一心に働いている。
 挺身隊であろうか、セーラー服にベルトをキリっと巻いたもんぺ姿の女学生さんや、制服のワンピースが可愛い社員さん、着物姿の女工さん。
 作業場に入る前に、乳飲み子を抱えてオムツを干している奥さんもいた。お婆ちゃんもいる。

 目の前を機械調整でハンマーを持っている挺身隊の女の子が通った。
 すぐ隣では、小学校を出たてのような幼い女の子が鉢巻をして巻上機械から出る大量の屑を細やかに集めている。

 あらゆる年代の女たちが皇国の勝利に向けて励んでいる。


 一方で、自分はなんだ。

 遊郭では中から下、多額の借金を旦那様に払ってもらい、意気地がなく産婆になれず、その上工場勤務一日目で弱音を吐いている。

 寝不足なのはこの作業場で働く女たちも同じではないか。
 眠気を押してなんとかかんとか毎日をやり過ごしているではないか。

「あんたは国防色の中を生きていくんだよ。その覚悟はあるかえ?」

 お蘭姐さんが茜色の夕焼け空を眺めながら尋ねた言葉を思い出す。


 …………なかった。

 …………覚悟を持っていなかった。



 
 澟は自分の右頬を思い切り叩いた。

 すぐに左頬を、もっと強い力で叩く。


「ふああああッ」

「ぐああさあああッ」

「いやさあああああああッ」


 雄叫びをして平手打ちを三回繰り返した。


「お、おい、お前、何やっとるんだ!」

「澟ちゃん?!どうしたのっ」


 ああ、やっと親父さんとハナちゃんの輪郭が戻った。

 作業場の工員たちも、突然の澟の挙動に目をまんまるくして、し……ん、と手が止まっている。


 澟は真っ赤な頬のまま、キリッとして答えた。

「眠気覚ましに気合いを入れました。お騒がせして申し訳ありません!」


 暫く沈黙していた作業場内が、安堵とともにドッと笑いが起きた。


「なにやってんの、この子」

「ああ、驚いた、ここがおかしくなっちゃったのかと思ったよ」

「こんなに腫れちゃって、顔洗ってきなさい」

「ヒロポンあるよ。打つかい?」


 澟は腫れた顔でビリビリと痛みを感じながら、へへ……と情けなく笑うしかなかった。


「コラッ!お前たち手を止めるなッ」


 作業を促す親父監督は、意外と優しかった。


「お前、女の子なんだから、気合いなんて入れなくていいんだぞ。冷やしてきなさい。身体は大事にしなさい。手拭いあるか?」



 澟に割り当てられた作業は、煙草の箱詰をする機械が上手く作動しなくなっているため、出来上がった煙草を二十本ずつ入れる単純な手作業であった。
 機械にさす油も配給で不足していると聞かされた。

 こんな簡単でええんか……?

と思っていたら、ハナが伝えた。

「今、各班で技術競争しているの。たくさん出来た班が賞与をもらえるから、みんな気合いを入れてるわ」


 澟の瞳が光り、一心に箱詰めに集中する。
 自分が新入りなせいで、班の出来高が低くなることは避けたい。

 勤務時間は夕方五時半までだったが、皆帰るものはいない。

 一時間残業して澟たちは終業したが、まだ半分ほどの女工さんたちは残って作業を続けるらしい。

 あの鉢巻の女の子は、先輩のおねえさんから、たばこ葉の中骨を圧展機で潰す作業を教えてもらっていた。


「初めてだから疲れたでしょう、食堂に行っておいで」

と、おねえさんが言ってくれた。

 先輩の女工さんを「おねえさん」というらしい。

 食堂へ行くと、葛湯と一緒に乾燥バナナを出してくれた。

「わ……久しぶりだ……!


 細い十センチほどの甘味で、戦争が始まってからよく食べていたが、最近は乾燥バナナも貴重品となり出回ることがなかったので、感激してしまった。

 
「葛湯の飴は、農家さんからビーツを貰ったから、刻んで煮たの。それを漉してね、ビーツをどけた煮汁をまた煮込んでトロトロにしたらお砂糖みたいに甘いお汁になるのよ」


 葛湯を作ってくれた割烹着を着たおねえさんは、近隣の農家の他、福島まで食糧を貰いに出ているらしい。

 養生を追求している澟は、「この甘味は天然の薬効ではないか」と優しい甘みに尊さを感じた。
 「ご馳走様でした」とお礼を行って廊下へ出ると、ハナが歌いながら誘う。


「最後にお風呂に入ろ!」


「え、使っていいの?」


「ええ。専売局のいいところはお湯に浸かれるの」


 澟はその言葉を聞いて、胸が弾んだ。二日間身体を拭くだけの状態で煙草の匂いがこびりつき、ムズムズしていたのだ。


 「あら、ハナちゃん、新しい子かい?」

 「この子だよ、警報親父を黙らせたの」

 浴場は澟たちの他に三人ほど入っており、作業中とは異なり下町の軽妙なお喋りを楽しんでいた。廓を出てから女たちの雑談を久しぶりに聞いた。
 どうやら今日監督していた親父さんを、しつこい、うるさい、なかなか説教が終わらないことから、「警報」と渾名をつけているらしい。

 身体中に陰鬱にこびりついたヤニの匂いを付属の石鹸で落とす。
 ああ……天国だ…………


 湯船に浸かった澟は、強張った身体を久しぶりに伸ばした。
 今空襲警報は来ないでほしい。
 やってきたとしても、出れる自信がない。
 他の女性たちも同じことを考えていて、「もし今、敵機に爆弾落とされたら、裸のまんまで仏になるってことかねえ」と言っていた。


 ハナは白い肌をゆったり湯船にあそばせながらため息をついた。

「銭湯に行っても、泥みたいなお湯でしょ。ここは贅沢よね」

「うん…………」


 澟は帰ったら、旦那様にもお風呂を沸かそうと思った。

 久しぶりに大勢の人の中で働けたこと、小さい娘さんからお婆ちゃんまで色々な立場の女たちが働いていることを、お夕飯の時に話そう。どんな風に聞いてくださるかしら。

 お願いだから、その時も警報は来ないでほしい。



(次回)

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