見出し画像

【愛でも喰らえ】#4 「のろひ歌 かきかさねたる 反古とりて」


 「しーちゃん、それアウトだよ」

 凪琉は、フォークを桜色に彩られたネイルの指先で上品にケーキ皿におき、真顔で詩乃に向かって言った。

「へ?」

 
 いつもは明るくて朗らかな凪琉が、神妙な面持ちになるのは珍しい。
 珍しいということは、油断ならぬ状態だということである。

 
 暦は三月に入り、徐々にのどかな空気の緩みが感じられるものの相変わらず朝夕は十度以上低くなり自律神経が追いつかぬ時期だ。




 凪琉は詩乃の数少ない作家友達である。

 フリー作家として文学フリマや即売会に参加したり、ネット公開にも意欲的で幅広いフィールドで執筆している。

 専業主婦で双子の子供が生まれてからの数年は育児で手一杯だったが、小学校に上がってから、やっと執筆の時間が取れるようになった。
 しかも凪琉は、旦那さんのお母さんの介護までやっている。

 主婦、母親、双子育児、介護と詩乃なら押しつぶされそうな重圧なぞなんのその、

「適当、適当。家族が健康で幸せに過ごしてくれたら何よりだよ」

と笑い飛ばしてその合間に執筆までしている凪琉を「おっかさんだ」と心から尊敬していた。




 152センチで小太りの凪琉は、沖縄出身である。
 日本人離れした大きな二重の黒い瞳と、上下共に厚唇で小麦色の肌はおおらかな南国住人そのものだ。

 今日は義母のデイサービスで、子供が小学校に行っている午前中に、観音様にお参りしようと一緒に浅草散策を約束していた。

 詩乃も凪琉も人情がまだ息づき、昔の空気が本殿前や、裏通り、隅田川にわずかに漂う浅草が好きだった。

 けれど、春の嵐がごうごうと吹き荒れ、仲見世の看板も飛ばされる始末。お散歩どころではなく、喫茶店でまったりとお喋りするコースとなった。

 二人がよく行く浅草の喫茶店「ノアール珈琲店」は、1964年創業の純喫茶だ。
 チョコレート色のアール・ヌーヴォー装飾であしらわれた外観と、蝋燭が立てられたシャンデリア、年季の入ったビスマルクレッドの縞模様の別珍のソファ、そして大きなステンドグラスが入ったアール・デコの柱時計が、まるで古き良き時代にタイムスリップしたかのように深い贅沢感を与えてくれる。

 サービスも徹底しており、メニューも幅広く、モーニングの食パンは一口食べると目を見張るほどだ。本気、を感じる味なのだ。
 創業から受け継がれてきたこだわりが大切に守られ息づいている、詩乃が大好きな空間だ。

 二人は店の看板メニューでもあるレモンチーズケーキをゆっくり堪能し、詩乃はクリーミィ珈琲、凪琉はキャラメル珈琲を、頭上で反射するシャンデリアの煌めきにときめきながら味わっていた。



 そこで詩乃は、作家になり上京してから生活が不規則になっていること、食事もろくにとれていないこと、外出が減り引きこもり状態になっていることを、「情けないよねえ」と冗談めかして話したのだ。

 けれど、凪琉は詩乃の「変化」を見過ごさなかった。


「しーちゃん、今日から自分のためにちゃんと三食ご飯を食べて。太陽にあたって。夜はお風呂にちゃんとつかって。掃除でもお散歩でもなんでもいい。身体を動かしてしっかり寝て、生活のリズムを作って」


 凪琉は詩乃の瞳をじっと見つめコンディションを確かめるように嗜めた。



「人は必ず人生の中で頑張らなきゃいけない時ってあると思う。でも寝不足で無茶できるのは三十五くらいまでだよ。年を増したら、増しただけ、明日もしっかり動けるようにメンテナンスしなきゃいけないの。それも『プロのお仕事』なんだよ」

 力強い凪琉の「仕事」という言葉に、詩乃は釘付けになった。

 ふわふわの白いロングスカートに、自分で編んだカロチャ模様のカーディガンを纏い、トリッカーズの編み上げブーツと、淡い金髪のウェーブショートの耳元には、ゴールドのお花の揺れるピアスをつけ、チェリーレッドの大ぶりの木製ネックレスをつけた凪琉は、まさに春の今を謳歌しているようなお洒落さだった。
 その上小さな爪には桜の花びらまでゴールドラインと共に散らされている。

 凪琉の装いからは、とても育児と介護をしている女性とは思えない。

 一方凪琉以上に時間もゆとりもあるはずの詩乃はといえば、どうだろう。

 黒のタートルネックワンピースに、今まで一度もカラーリングしていないいつものひっつめ髪、祖母から譲られたなめし革のショルダーバッグ、靴まで黒のぺったんこフラットシューズといういでたちである。
 ギリギリまで寝ていたので、ネイルどころかアクセサリーだってつけていない。
 春なのに。春なのに黒まみれ。気持ち的に出遅れている。


 「夢中になる」という言葉は、一見楽しげで一生懸命にみえる。

 しかし、その漢字の通り、「いつまでも夢の中にいて、現実に戻れない」という危うさを同時に併せ持っている。

 今の詩乃がまさにそうであった。


 先月、新しく担当になった恩田から、

「おめでとうございます、連載決まりました!」

という連絡が入った。

 新人枠で、五名の作品が連載の候補に上がり、編集会議の末、多数決で詩乃を含めた二名の連載が決定された。

 それだけでも、ヘナヘナ……と携帯片手にへたり込む始末だったが、もう一人の連載決定の小説が、なんと動物病院を舞台にした悲喜交々の良作で、満場一致で決定されたのだった。


「ええっと、確か北川さんと同年代ですよ。やしろ梓さんです。」


 やしろ梓さん。
 確か、詩乃が受賞した翌年に、入賞した作家だ。大賞はとってはいない。ということはすでにデビューしていた作家となる。

 詩乃の心の中に、澱んだ血の色の縄ががんじがらめになって重くずっしりと横たわり、その縄はやがて黒くなり蛇のように蠢いてきた。


 動物病院……

 満場一致……

 同年代……

 同時連載……


 子供の頃から詩乃がなりたかった、そして長年勤めて現場を生きてきた動物病院の世界を見事に描き切ったものがいる。

 しかも詩乃には成し得なかった編集者全員の「満場一致」。



 紺野さんも、認めた才能…………

 詩乃の胸がチリッと痛んだ。


 その人と同時期に連載を始めるのか。

「北川さんともう一人、明治期の忍者の世界を描いた作品と競り合っていたんです。一度目は同票だったんですが、二度目の話し合いの後、多数決でなんとか一票差で勝ちましたよ!」

 奮起させようと高揚して話す恩田の声が、どんどん遠のいてゆく。

 満場一致と、なんとか逃げ切れた勝ち。


 その差が、どれほど険しく底知れぬほどの重圧を伴うのか。
 詩乃はこの時、はじめて小説家という生業の恐ろしさを肌身で感じた。

 それからは気が気でなく、朝も夕も構想を練り続け、どうしたら読者が食いついてくれるか、読んでくれるのか、そして、相手に勝てるのかを模索し続けた。

 健康にため拵えていたお味噌汁も作れなくなり、チャーハンが火を使わなくて済むおむすびに、手を使わない冷凍パスタに、しまいには皿を出さなくていいスーパーで買ったデニッシュとカロリーメイトになった。

「唇がカサカサ。肌も薄黒いよ。野菜食べてないでしょう」

 リップを塗ったはずがすぐに皮が剥がれるくらいに年増になった詩乃の不摂生を、同い年の凪琉は見事に見抜いた。

 そうだ……引きこもっているからお風呂だって入っていなかった。
 昨日と今日、明日がずっと地続きで、創作という沼に呼吸も上手くできずにずんぼりとつかったまま、出て来れずにいる。いっとき上がっても、身体中にべっとりとこびりついた泥は落ちず、いっそ沼の中の方が居心地が良いとさえ思うようになっている。


 凪琉が誘ってくれなければ、泥人間のまま過ごしていたことだろう。
 詩乃はいたたまれず、重い瞼を閉じた。


「話して。何か悩んでることがあったら吐き出して」


 凪琉は、テーブルに置いていた詩乃の手を上からさすった。
 なんてほわほわの柔らかい肌だろう。ムダ毛を処理していない詩乃の硬い手は硬く拳を握った。

 おっかさんだ……やっぱり。

 
 詩乃は、堪えていたものが放流するように、大粒の不安を吐き出した。



(次回)


(マガジン)


この記事が参加している募集