「羽ころも、春ころも」#15
(画像: 大東京 本所被服廠跡納骨堂 大正期か 絵葉書 作者所持 白黒画像をネットのAIでセピア化)
1941年 6月
梅雨時は客入りが悪い。
廓では二月、八月に続いて六月が閑古鳥の時期だ。
正月の大判振る舞いではしゃぎすぎた客たちは二月に入ると財布の紐を締めるのが常である。電話や手紙でしなって誘ってもやんわりと逃げられる。
高音多湿、雨、台風の六月八月は言わずもがな外に出る気も失せる。
娼妓たちにとっても、今からお彼岸前までは暑いわだるいわ、白粉はすぐに汗で流れるわで、厄介な季節だ。毎日氷屋を待ち侘びるほどだ。
職業柄、腎が弱い者が多く夏の暑さはひどく堪える。
引き付けで午後三時ごろに起き出す娼妓たちの多くも、曇天の雨続きだと気分が鬱屈する者や、昔の古傷が痛む者、歯痛に悩まされる者なぞ、身体のどこかしらに不調をきたす者が増える。
「メザシ一匹だけで、身体が気張れるかい」
早い夕飯を食べている時、女郎のおトクが文句をいう。
「そういう言葉はお職ぐらい稼いでから言って欲しいね。稼ぎさえよけりゃ、卵や肉だって買えるさね」
ロイヒをこめかみに貼った遣手婆あがすぐに釘を打った。
「ええい、今日も鬱陶しい雨かい。あたしも生卵を二個三個流し込んで精気を入れたいもんだ……」
そうブツブツ言いながら湯を忙しなく運んでいる。
「正造、お前も運ぶの手伝ってくんな」
丁稚に頼んで桶に湯と水を混ぜて運ばせた。
七時間前にお客を送り出し、倒れるように眠ったおりんも頭痛と共に起床し、どんよりとした心持ちのままメザシをモゴモゴと食べていた。
「ねえねえ、昨日のお客さんさ、阿部定らしい女をみたんだって!」
ええーっとからかい気味に、一斉に黄色い声が沸く。
「どこでだい?」
「尾久の温泉街で。じっと見つめられてる気配がして振り返ったら、小柄な縞の着物の女がほら、捕まった時のあのニタっとした笑みで見つめてたって」
「まさかあ、作り話しだろ」
「本物かもしれないよ。いや、生き霊かも」
色事や占い、怖物が大好きな女郎たちはことあるごとにキワモノ話に盛り上がる。
阿部定が恩赦を受けて栃木刑務所から出所したのは先月であった。
1936年にあの有名な事件が起きたのは、千住大橋を渡った隣区の出来事で当時は千住でもその噂で持ちきりだったらしい。
阿波にいたりんでも、事件は知っている。
新聞や雑誌がこぞって連日面白おかしく書き立てていたし、大人たちもみな注目していた。
当時は男女の秘め事とは程遠い田舎の十四歳の女生徒だった。
友達と春には重箱を持ってお花見に行って、夏には海に行って、秋には芝居をみて、冬にはスキーをした。
あのまま、娘のままで大人になれたらどれほど楽だったろう。
それが五年で、まさか自分がこんなところにいるなんて。
当時の友人らにも顔を見せれまい。
米粒までしっかりと食べ終わったりんは「ご馳走様です」とお膳を持った。
りんは、阿部定については正直関心は薄かった。
あるとすれば、紀元二千六百年の恩赦とはいえ、人を一人殺した者がたった五年の服役で刑務所から出れるのかという司法への呆れた驚きと、旦那さんを奪われた奥さんやお子さんの苦労はいかばかりだろう、相当堪えたろう、という重苦しい想いだった。愛情であっても人殺しは人殺しである。
いざ苦海に溺れて一年と少したつ。
男女の戯れは戯言で終わるのがお互い一番いいと知った。
そのようなりんであったから、「ふのり」は重宝していたし、情夫などもとても持てなかった。情夫に貢ぐなら一刻も早くここを出てやる。
それより日本と協定を結んでいる独逸が、「バルバロッサ大作戦」というご大層な名前を振りかざして、ソ連に侵攻したことの方が気になった。
もし日本もソ連と戦う場合、革命の最中勝ちとれた日露の時のように簡単にはいくまい。
遠いヨーロッパの事件だと思っていた戦が急に近くなった気がして胸がざわついた。
この時はおりんをはじめ、一般人の多くがまさか今年に日本がアメリカと戦を始めるなど思ってもみなかった。
湿気が廓全体を水槽のようにとっぷりと覆っている。
動くのも億劫だが、風呂に浸かろうと廊下を歩いている時、後ろから遣手が声をかけた。
「おりん、ちょいと」
目立たない隅の方に引き寄せて、そっと囁く。
「お前、産婆の資格を持っていたね」
「ええ」
「赤ん坊の取り出し方は知ってるってことだね」
産婆になるには病院で十ヶ月働く実習期間が必要である。
おりんも女学校を中退して、産婆学校に通いながら産科でお手伝いをしていた。
「ええ。一通りは習いましたけれど」
遣手は助かった、という安堵の表情を浮かばせてりんの耳元で囁いた。
「なら有難いよ。曙がね……」
りんの表情は石のように固まっていった。
「曙が是非お前に頼みたいって言ってるんだ。みてやってくれないかね」
廓で妊娠することは恥とされる。
女郎の腹は地獄腹、子は鬼の子と呼ばれ忌み嫌われた。
お職のように稼ぎがある者なら生んですぐに子を裕福な家に養子に出すこともできるかもしれない。
しかし出産のために休んだ日数分の借金が上増しされる。産婆や遣手にお礼代、血の道が悪ければ入院と薬代、加えて養子費用……
売れっ子であっても血の気が引くほどの多額の金がのしかかるのだ。
多くの女郎は子を宿したと分かったら、一日でも早く出てくれるよう腹を叩いたり、危険な硫黄や水銀を服用したり、お秘所に鬼灯の根を入れて刺し流し出した。
女たちにとっては借金を負わせ、身体を弱らせ、働かせない邪魔ものでしかない。
「曙姐さんは生むと言ってるんですか?」
「とにかくきとくれよ、今日は女将さんにお前のことはよく言っておく。
あたしの部屋にもんぺと割烹着があるから着替えてくれないかい」
りんは婆あに連れられて階段を上がったすぐにある小部屋に入り、もんぺをはいた。
もんぺの着心地の軽さ、動きやすさったらない。
姐さん被りをして階下へ降りて、廓の北側奥にある隠し部屋に向かう。
使われていない調度品を置くような部屋だが、折檻部屋に使ったり、伝染病にかかった者を寝かせたり、隠れて博打を打つ場所だったりと、内情が表には出ないように普段は開かずの間である。
「曙。おりんを連れて来たよ」
襖の前で婆あが伝えると、息苦しそうだが気丈な声が返った。
「入っとくれ」
りんがそっと襖を開けると、想像していない光景が広がっていた。
ボロ布が敷かれれた上で曙は横たわっていたが、異様な体位だった。
天井から産綱があらゆる紐で絡まって垂れており、その先は片足が結ばれているではないか。
曙は、蛙のように両股をぱっくりと開かせて、浴衣がはだけ汗まみれになって肌を震わしながら、血走った目でおりんを見た。
(次回)
(マガジン)
