第三話ソファーの向こう側── 傷を抱えたまま、生き直す
【第3話:挑戦】── 34,210円の崖っぷちと、あたたかい草履
50歳を過ぎてからの転職活動は、尊厳を削られる日々だった。
ハローワークで渡された書類に書かれた自分の属性は、ただの「50代・無職のおっさん」。20社に応募して、20社すべてから「お祈りメール」が届く。夕方のスーパーで、半額シールを待つ人の列に並ぶ。カゴの軽さが、そのまま自分の人生の軽さのように思えて、喉の奥が熱くなった。
なかでも、決定的なトドメとなった面接があった。面接官は、私の娘とさほど年齢の変わらない、30代前半の若き人事担当者だった。
「タカさん、Excelはどの程度使えますか? パワーポイントや、AIツールを実務で触ったことは?」
「あ、いえ……現場の管理が中心でしたので、基本的な入力程度なら……」
面接官は小さくため息をつき、「結果は後日」と、私の顔を見ることすらなく面接を打ち切った。
夜、アパートのソファーに深く沈み込んでいた時、娘からの電話があった。
「もしもし、お父さん? 新しい会社、もう決まった?」
私は、見栄を張って嘘をついてしまった。
「おう、元気やで。いくつか良いところと話が進んでてな、順順調や」
通話を切った瞬間、部屋が静寂に包まれる。「情けないな……本当に、情けない……」
翌日に21社目の面接を控えた夜、ATMで記帳した通帳の数字を見て、私の指は震えた。
【残高:34,210円】
家賃を払えば、来月には完全に破産する。「次、落ちたら、本当に終わりだ……」
その時、狭いアパートの空気が、ふっと和らいだ。どこからか、香ばしい焼き味噌のような匂いが漂ってくる。
「おいおい、そんなシケた面すんなや。せっかくの男振りが台無しだがや」
ソファーの端に、派手な金刺繍の羽織を羽織った小柄な男が座っていた。
コードネームは「サル」。百姓から天下人へと昇り詰めた男の幻影だった。
「天下人が私のような一文無しに何の用だ。私にはもう、プライドもお金もない」
サルの男はケラケラと笑い、懐から一足の「温められた草履」を取り出し、私の足元に置いた。
「プライド? 技術? そんなもん無くして、何が死ぬか!
いいか、タカ。俺はな、元を正せば武士だ気取らない、泥にまみれた百姓の倅だ。周りの奴らはみんな、立派な家柄だの武芸の流派だのという『肩書きの鎧』を着込んでおった。だがな、俺にはそんな上等な鎧は一枚もなかった。だからこそ、俺は生身の体一つで、人の心に飛び込むししかたなかったんだ。
お前と同じだわ、タカ。俺も生き残るために、必死で『空気を読み』、人の心を調律してきた。いいか? 人はな、立派な肩書きや履歴書では動かん。最後に人を動かすのは、生身の『心』、ただそれだけじゃ!」
サルの男は私の胸をドンと叩いた。
「立派なおっさんを演じるな。泥をすすってきた生身のお前で、ぶつかってこい!」
翌朝、私は21社目の面接会場である、小さな町工場の事務所にいた。
「うちみたいな小さな町工場じゃ、あなたのよう大企業のベテランが馴染めるとは思えないんですがね」
形式的な拒絶。しかし、私の懐には、エジソンの電球が灯り、サルの草履があたたまっていた。私は『プライドの鎧』を、その場に脱ぎ捨てた。
「──仰る通りです」
私は面接官の目を真っ直ぐに見つめ、生身の本音をぶつけた。
「私は、前の会社を事実上のクビ同然、ボボロボロになって逃げ出しました。50歳を過ぎて、新しいITツールにもついていけず、20社以上落ち続けました。私は、決して優秀な人間ではありません。
ですが、私は過酷な現場で、どうすれば現場の人間が壊れずに済むかを、身を挺して学んできました。傷つき、泥をすすってきたからこそ、働く人の『痛み』が誰よりも分かります。どうか、私に、もう一度だけチャンスをください」
頭を深く下げた。沈黙を破ったのは、年配の社長のふっと笑う声だった。
「ははっ、参ったな。最近の面接に来る奴らは綺麗な志望動機ばかり並べるもんだから、退屈で仕方がなかったんだ。だけど、あんたは面白い。ボロボロのくせに、目が死んでいない。……来週から、来られるか?」
事務所を出て、初夏の青空を見上げた瞬間、胸の奥から熱い塊が突き上げてきた。
「よっしゃあ……! よっしゃあ……!!」
社会に拒絶され、ゼロ以下になった50歳のおっさんが、自分の「本音」だけで、新しい居場所を勝ち取った瞬間だった。
次回【第4話:進化】── 老いへの恐怖と、黒いタートルネックの男
「お前が恐れているのはAIじゃない」
そう言って彼は、私の50年の人生を根底から覆す言葉を残した
