【古典おしがま】春雨の朝霞姫
内裏の空には、夕刻から細い雨が降り続いていた。
御簾の外に置かれた遣水は、雨粒を受けて、さらさら、ちろちろと絶えず鳴っている。濡れた梅の枝からは雫が落ち、そのたびに、玉を一つずつ水面へ沈めるような音がした。
中納言家の姫君、二十二歳になる朝霞は、桜襲の十二単をまとい、月見の宴に列していた。
薄紅から白へと移ろう衣の重なりは、春の霞そのものだった。長い黒髪は畳の上へ艶やかに流れ、伏せた睫毛の下には、雨夜の灯を映したような瞳があった。
朝霞は、幼い頃より物静かな姫と評判だった。
笑うときも袖で口元を隠し、苦しいときほど姿勢を崩さない。しかし今宵ばかりは、その慎み深さが自身を困らせていた。
宴が始まる前に、白湯を勧められるまま飲みすぎたのである。
遣水の音が、やけに近く聞こえた。
さらさら。
ぽたり。
ちろちろ……。
朝霞は扇を握り直した。女房に退出を告げればよいだけのこと。しかし、ちょうど帝の御前では管弦が始まり、席を立つのはひどく目立つ。まして今夜は、初めて顔を合わせる若君も参列していた。
その若君――橘成親は、御簾を隔てた向こうにいる。
朝霞は衣の下でそっと膝を寄せた。
「姫様、お顔の色が……」
傍らの女房、千歳が小声で尋ねた。
「なんでもありませぬ」
答える声は、いつもと変わらず淑やかだった。
けれども琵琶の音に重なり、庭では雨脚が強くなっていく。軒から落ちる水が、やがて滝のように響き始めた。
ざあああ――。
朝霞は息を詰めた。
一刻だけ耐えればよい。曲が終われば静かに席を立てる。そう思うほど、時は遅く流れた。
やがて演奏が終わり、朝霞は扇を支えに立ち上がろうとした。
その瞬間、庭の樋にたまっていた水が、一息に流れ落ちた。
ごおおっ――。
朝霞の身体から、ふっと力が抜けた。
幾重もの衣の奥へ、抗いようのない温もりが静かに広がっていく。衣擦れの音さえ立てぬまま、彼女は扇で顔を隠した。
頬だけが、紅梅よりも深く染まった。
「千歳……」
呼びかけは、春雨よりもかすかだった。
事情を察した千歳は、驚くこともなく朝霞の背後へ回った。
「姫様。少し夜気に当たりすぎたようでございます。お局へ参りましょう」
千歳が裳の裾を巧みに整える。重ねた衣は朝霞の秘密を深く包み、周囲の者には何ひとつ悟らせなかった。
朝霞は顔を伏せたまま、静かに御殿を退出した。
渡殿へ出ると、冷たい風が頬を撫でた。庭の梅は雨に濡れ、香りばかりを夜へ漂わせている。
恥ずかしさに胸を塞がれ、朝霞は足を止めた。
そのとき、背後から落ち着いた声がした。
「姫君」
橘成親だった。
朝霞の肩がわずかに震えた。しかし成親は近づかず、十分な距離を置いたまま、手にしていた桜色の被衣を千歳へ差し出した。
「夜は冷えます。これを」
「けれど……」
「雨に濡れたということにしておきましょう」
成親はそれ以上、何も尋ねなかった。
知っているのか、知らないのか。朝霞には分からない。ただ、彼の眼差しには嘲りも好奇もなかった。
朝霞は被衣を受け取り、深く頭を下げた。
「かたじけのうございます」
雨はなおも降り続けていた。
けれど朝霞には、先ほどまで自分を追い詰めていた水音が、今は恥じらいを覆い隠してくれる優しい幕のように聞こえた。
翌朝、橘成親から一枝の白梅が届いた。
添えられた文には、ただ一首だけ記されていた。
春雨に 霞む衣の色よりも
人の心ぞ 隠れざりける
朝霞は何度もその歌を読み、やがて小さく微笑んだ。
そして文を胸元へしまうと、昨夜のことを誰にも語らぬまま、白梅をそっと文机に飾った。
