三島由紀夫『花ざかりの森・憂国』
はじめましての人も、前から知ってる方も、ごきげんよう。
岡埜 由木古です。
三島由紀夫作品の感想記事です。↓
2025年11月14日
(文字数:約2900文字)
『花ざかりの森・憂国』
1968年初版 新潮文庫 2020年新版
三島由紀夫が自ら選んだ短編集
存在して入手できるのなら私は自選短編集が読みたい。
三島由紀夫に限らず小説家それぞれに、筆者がこよなく愛好し筆者にしか選び出せない作品が、あるに決まっている。
しかも巻末に三島氏自らの解説付き♪
こんなん絶対買いに決まってるじゃないかぁ。
もう一人の解説者、佐藤秀明氏も指摘しているが、三島氏の解説が書かれたのは三島氏が亡くなる2年前だ。
自らの最期を、正確に予見は出来ていないまでも、ある程度の想定は為されていた可能性が高い。
そこも踏まえてひと通りを読み終えての、私の感慨を率直に記すと……、
公威くん(三島由紀夫の本名)、貴方お育ちが良過ぎたのよ……!
になる。
以下、なぜそう感じたかを説明する。
そりゃそうだろうまだ16だもの
公表年順に並んでいるので冒頭は16歳の年に書かれた『花ざかりの森』だが、これだけは三島由紀夫が選んでない。編集部の意向で組み込まれた。
それは43歳当時の三島氏は選ばないだろう。正直に言って、拙い。
稚拙でも、拙劣でも、ない。
稚くもないし劣ってもいない。ただ拙い。
文章は巧い。学習院という恵まれた環境で研鑽したとは言え、16歳に可能な限りを極め尽くしている。
しかしまだ、自分の生家と一族の事しか知ってはいない。にも関わらず、それが世界の全部とは言わないまでも、大部分を占めていると思っている。
そりゃそうだろう。まだ16歳なんだから。
この拙さを、正確に指摘できた誰かが、当時の公威くんの周りにもしかしていなかったとしたら気の毒だ。
そしていなかった可能性は結構ある。御学友も教師陣も、似通った家柄に生まれ育って概ね同じような世界を、共有していたと思われるから。
十代の公威くんに語りかけたい
そしてどれほど目を凝らしたとしても、実質それほどの欠点も見当たらない御両親を、批判的な文章で切り取るなんて、おやめなさい公威くん。
批判的な眼差しを持ってこそ、小説家であるように、特に当時は思われていたのかもしれないけれど(事実新しい視点を呈示できないのであれば文章などに何の意味があるか)、
そんな事は実際に批判すべき親を持った人々に任せておけばいいの。貴方のように御家族から愛されて、本心を言えば御家族を愛してもいたでしょう方が、それをやってしまったら、自分の批判的な眼差しに自分こそが傷付くのよ。
するとどうなると思う? 批判的な眼差しで取り出した意見を、まさしく真実だと思い込まなくては、一度でも批判的な眼差しを向けてしまった自分が許し切れなくなるのよ。
二年後の18歳で書かれた、『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』は、確かに面白いです。
とは言え自分の殻を破りたいがために、そして生涯問い続けるべきテーマを見出すために、よりにもよって中世の殺人者を選んでしまったか……、とは正直に言って嘆息する。
ごめんな。そんなもん、てめぇみたいなお育ちのよろしい子が、真面目に探究するテーマじゃねぇぞ。
俺みてぇな泥水すすってきた人間にこそ向いてんだ。せっかくの富裕層に育ったお綺麗な手を近付けんじゃねぇ。どうせ汚れたところで染み付かねぇだろうが。こちとらまず洗えねぇし洗えたところで臭いが取れねぇんだよ。
他はざっくり行きます
と言うより短編集なので、機会がありましたら皆さんがそれぞれに読んで味わって下さい。
『遠乗会』 …… 一行目からえも言われぬ気品が滲み出ていてお気に入り。公威くん、貴方はやっぱりこういうのが似合うよ。
『卵』 …… 三島氏自ら選び出してくれた事を有難く思う。愛すべき逸品。私が思う愛すべき、とは、意味など無くても構わない、という事だが。
『詩を書く少年』…… だから「ゲーテになりなさい」って、言ってもらえてたじゃない。
『海と夕焼』…… 理屈抜きで好き。この作品で思い出されるだろう、と解説で三島氏が語っている事柄は、私は別物に感じて思い浮かべたくもない。
『新聞紙』…… 新聞紙が一生忘れ難くなる光景を、見ていた者がただ一人の一時という理不尽。
『牡丹』…… 嫌だ。小説や文章ではなく、内容が純粋に。しかしそう感じてもらうための話だろう。
『橋づくし』…… 風情。花柳界に生きる女性たちと、そこに開いたほころびが可愛い。
『女方』…… 映画『国宝』の女方師匠と、名前が一緒だけども、もしかしてこの作品から取られた? それはともかく艶。
『百万円煎餅』…… 相当に研ぎ澄まされた逸品。主人公夫婦の心境にかなり肉迫している。
『憂国』…… 別項を設けて後述する。
『月』…… シャレオツ(←もちろん私はわざと言っている)。
『憂国』を読んだ上で裏返す
ここはどうしても三島由紀夫氏の解説を引用したい。
(……)かつて私は、「もし、忙しい人が、三島の小説の中から一編だけ、三島のよいところ悪いところすべてを凝縮したエキスのような小説を読みたいと求めたら、『憂国』の一編を読んでもらえばよい」と書いたことがあるが、この気持には今も変りはない。
……だろうなぁ。
読み味わった上で言うんだが、公威くん、貴方が見限った世界は、貴方の生家を中心にした、世界のごくごく一部でしかなかったよ?
ほんの一歩その外側に出られさえすれば、一度でもその外側から眺める事さえ出来れば、貴方は何もあの最期を選ばなくたって良かったのに、と私は断言できる。
と言うのもこの感慨は、裏返せばそのまま私の人生に当てはまるからだ。
私が見限ってきた世界は、私の生家を中心にした、世界のごくごく一部でしかない。
公威くんが勇気を振り絞って接触してみただろう、コミュニティの最下層に位置する人々すら、私の故郷にとっては一生に一度お目にかかれるかどうかの立派な方々、という事実。
容赦は無いがここに希望が見える。希望というものは実際本当にささやかな光で、闇のただ中にいるからこそ輝いて見えるだけなんだが。
同じ国家に生まれて同じ世代を生きていても、社会階層が異なれば全くの異世界だ。
しかしそれは、敵対する国家や対立する世代であっても、社会階層が似通っていれば理解し合える、という証査でもある。
それに加えて、裏返して見ようとする意識さえ持てれば、かけ離れた社会階層であっても理解に近付ける、という確信を得た。
そしてこの意識は下層側から試みる方が容易い。
上層側からは試みる素振りを見せただけでも、有難く受け取られて平伏されてしまうからな。するともう正確な裏返しは見る事すら不可能になる。
以上です。
ここまでを読んで下さり有難うございます。
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