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幸せを否定しない

 はじめましての人も、前から知ってる方も、ごきげんよう。
 岡埜 由木古です。

 見出し画像はなんのはなしですか白へびさんと、奈良県天川村にある天河弁財天社の五十鈴いすず

 ここ数日就寝中の脳内に、浮かび上がってきたあれこれを、これまでに、私と縁があった方々しか読まないとは思うが、目を留めて気に留めて下さる方が、他にも幾人かいれば儲け物、くらいの感覚で書き残しておこう。

2025年8月28日
(文字数:約2700文字)


 私が書くべき小説は書き尽くした、と言い切れる事は幸運である。

 商業出版が叶い揺るぎない人気を博している方であっても、そこを言い切れる者は、それほど多くないのではあるまいか。
(厳密に言えば私も、あと二作品分ほどの構想があるのだが、書き出す度に「何かが違う」「今ではない」と感じて削除してしまうし、今後書き終え切れずに生涯を終えたとしても、身が裂かれるほどの後悔は無いだろう。)

 そもそも私がなぜ小説を書き続けてきたかと言えば、様々な階層における理由があり一言では説明し難いのだが、あえてそのうちの一つを取り上げるとすれば、森羅万象をただ文章のみで書き表せたかったからである。

 ひいては親をはじめとする先祖に一族、兄弟に義理の一族に甥姪、尊敬の念を抱く人物に偉い人凄い人はもちろん、名前までは知らない諸店舗の店員さんや顔見知り、決して民度が高いとは言えない近隣住民、の中でもとりわけ近寄ったらあかんと言われている奴、世間的に見て暮らし向きが良くないとヒソヒソ話の対象になっている者に、人類の敵であるかのようにあるいは人類の敵そのものとして忌み嫌われている者、
 全てを私は可能な限り、ただただヒトとして眺め、文章中で取り扱いたかったがためである。

 賛同を得られなくても構わないが、私は以下の文言を事実として、根拠は示せないまでも理解しているつもりでいる。

 この世に生まれ落ちた以上、全てのヒトが(本来は全ての生物、であるのだが割愛する)、
 神だろうと仏だろうと、呼称は何であろうと構わないが、何かしら大いなる存在によって、その人物の意志とは一切の関係無しに、生かされている。

 愛されている、と就寝時の私の脳内では語られていたのだが、「愛」という語句はヒトの世において、意味合いが多岐に渡り過ぎて誤解を招きかねないので、「生かされている」程度に濁しておこう。

 何せ大いなる存在がヒト一人一人を生かそうとする力は、容赦がないほどに強大すぎて、ヒトの感覚では恐ろしい。
 例えば私が自ら死を選び実行に移したその瞬間も、私が息を引き取る最後の瞬間まで、私の身体がそのためにどれほどの苦しみを味わおうとも、大いなる存在は、私の息を継がせようとするのである。

 寿命でもない限りヒトは安らかに眠らせてなどもらえない。まずここまでを前提として、耐えられそうな方にはまだ話を続けようか。

 大いなる存在が、なぜヒトそれぞれをギリギリまで生かし続けるかと言えば、ヒトは元来誰しもが、充足して生きられるはずだからである。

 実際のところは常に、今の私に必要なものがもたらされ、今の私に不要なものは離れ去る。

 厄介なのは、「今の私」を私自身は正当に評価し得ず、従って今の私にとっての要不要も、私自身の望みとは、時に大きく隔たってしまう事だ。
 もたらされたもののどこがどのように必要なのか、離れ去ったもののどこがどのように不要となったのか、大いなる存在は言葉を要しないので、説明して下さる事も無い。

 つまり幸不幸はヒトの世の中にしか存在しない。
 ヒト同士の比較に、愛の指向性が絡み合う事により、生じてしまうものだからだ。

 好きな人から好かれなければ悲しいが、知らん奴から好かれるのは気持ちが悪いし、嫌いな奴から好かれてしまえば怖気が走る。
 残念な事であり残酷な事でもあるのだが、愛の指向性の根拠となる、その好き嫌いが決まる際には、人それぞれの本来の趣味嗜好よりも、世間一般的な比較が重視されてしまう、常識や正義とまで思い込まれてしまう傾向が、とにかく強い。 

 しかし大いなる存在の感覚では、誰しもが愛され、また誰しもが差し向けた愛を喜ばれて当然、なはずなのである。

 ヒトの世においてヒトは役割の使い分けとそれらの集積である。誰の前でも等しく常に一貫した性格というものは存在しない。故に関係性の無い他人から見た評価は、そのほとんどが的外れだ。
 にもかかわらずただ一面のみから見た評価が、その人物を決定付けてしまう場合が実に多い。

 ところで生殖機能を失ってからが人生だと、私は思っている。

 生殖機能が存在し発揮されている間は、ヒトは子孫を産み育てようとする身体からの要求に、どうしても意識及び行動の、半分からそれ以上は支配されざるを得ない。
 生殖機能を失ってようやくヒトは、ただ自分一人が生活していくためだけに、ただ自分一人の生存に関わる分だけの、健康でいられるのである。

 年老いたわけではない。子孫を含んだ他人の生き死にまで、抱える必要がなくなっただけだ。
(あえて生き死に、と表現する。社会的道義的責任、とはまた異なる。)

 壮年期までに蓄えた技術や資産に守られながら余生を過ごす、がこれまでの、一般的な人生イメージだったと思うが、
 宗教もそのイメージを元に築かれ、壮年期までを主にキリスト教とヒンドゥーが、壮年期以降を主に仏教とイスラムが担当してきた、と私はざっくり理解しているのだが、
(その他の諸宗教に属する方や異論があるだろう方には申し訳無いが、何分私個人のざっくりとした理解なので容認頂きたい。)

 何も年老いたわけではない、と思えたなら、既存の宗教による救済は不要になる。

 繰り返すが、大いなる存在の感覚では、誰もが途方も無く強大な力を日々与えられ続けながら(天地いっぱい総がかり、と私の知人の御住職は表現するが)、生かされている。
 私個人の意思には一切何の関わりも無く、今の私に必要なものはもたらされ、今の私に不要なものは離れ去る。
 
 安心、できようはずがないヒトの世の中で、それでも能動的に安心、しておいた方が良い。
 安心、していない事には我々人類は、意識的にせよ無意識にせよ、他者を比較し攻撃する事をやめ切れないからである。
 そしてその攻撃が更にヒトの世を辛くする。巡り巡って今の私にも、必要とされた分がもたらされる。

 総じて言うのだが私は、仕合わせである。
 傍目どころか実感として地獄の最中にあった時でさえ、私の総体は常に、仕合わせだったと言い切って良い。


以上です。
ここまでを読んで下さり有難うございます。

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