謎多き天才ちゃうかったで空海(多分)
はじめましての人も、前から知ってる方も、ごきげんよう。
岡埜 由木古です。
2025年11月8日に、和歌山県の高野山大学で受講した市民講座、
「高野山学」の第8回がめちゃくちゃ面白かったので共有したい。
とりわけ空海が好きな方には共通認識になってもらいたい。
という長丁場な

2025年11月17日
(文字数:約4200文字)
弘法大師空海をめぐる人々
ー 伊予親王と阿刀大足ー
関西大学文学部准教授 櫻木 潤
とは言え空海好きにもグラデーションがある
私ももちろん空海好きなんだが、どちらかというと弘法大師という信仰の対象というよりは、人間としての空海、もっと言えば、
佐伯 県守 善通卿と、玉依姫の間に生まれた佐伯真魚が、実際のところどういった人物像だったのかを解き明かしていく、その過程が、ヨダレ出そうなほどに大好物なんだが、
イヤだ、夢が壊れる、お大師様には人智を凌駕するスーパーヒーローでいて欲しい、という方にまで、ぜひ読んで欲しいとは申しません。
あと受けた講義内容と、配布された資料から、私個人が面白かったところをピックアップして再編成していますので、実際に見聞きした文言とは異なります。
従ってこの記事内容がつまらなかった場合、また櫻木先生の意図や正確な史実から逸れた場合の文責は、先生ではなく私、岡埜由木古が負います。
おじさんめっちゃ偉かった
空海が14歳から、京(京都ではなくその時の役所が置かれていた場所)で学者だったという、母方のおじさんに、勉強教えてもらってた、って話は前にも聞いた事があったんだけど、
その母方のおじさん、阿刀大足の役職が文学だった。
文学、とは親王の教育係。
当時の桓武天皇にたくさんいた皇子、の中でも特別に選ばれた存在が親王で、言うなれば皇太子候補者、の教育係。しかも親王につき1名のみ。
ガチで偉いじゃない。ってかそんだけ偉くなきゃ佐伯夫婦も、香川県から大事な嫡男預けないよね。
そして阿刀大足が教育係をしていたのが伊予親王。空海とは六歳差で空海の方が年上。親王と親王の近侍者に対して、空海(当時は佐伯真魚)を絶対に紹介しているはず。
……この時点で空海、親王と兄弟弟子じゃね?
そりゃ御学友も出来ますわな
空海が17歳から、大学に入っていた、という話も聞いた事があった。
と言っても西暦にして790年当時の大学は、京にたった一つだけ。役割も現代とは違って国家役人の養成機関なんだから、空海もこの頃は普通に役人目指してたよね。
当時の律令(法律)によると、相当位の高い貴族の子しか大学には行けなかった。役人とは言えせいぜい讃岐の長官程度の子がなぜ入れたんだ? と長く疑問に思われていたけど、
法律と実際の運用が一致しない事は、現代でも普通に起こりますわな。
現に日本各地から入って来て有名な役人になった人も結構な数がいるし、空海は地方出身の学生たちと仲が良かったようだ。
岡山出身の和気清麻呂さんと息子たちなんか大人になってもズッ友だ。
天皇たちも空海の存在知らんこたないよね
桓武天皇は伊予親王を皇太子にしたかったみたいで、伊予親王の別荘を、結構な頻度で訪ねている。別荘は京都の北側にも南側にもあって、それぞれを訪ねた記録が公式に(←ここ重要)残っていて、
伊予親王の教育係がその場にいてもおかしくないよね。
記録に残されちゃいないんだけど、教育係の甥で伊予親王とも交流がある空海が、その場にいてもおかしくないよね。
桓武天皇までは分からないけど、伊予親王の御兄弟、の中でも気が合う人たちには、きっと紹介くらいされているし、気が合わない人たちにも評判くらいは届いているよね。
そして遣唐使船に乗る
もちろん桓武天皇の御命令で、真言を学んでくれ、って事で、31歳で唐に赴くんだけども、
空海、同じ船団にいた比叡山の最澄とは、別の船に乗ってるのよね。
そりゃ当時から世に知られた最澄と、それまで公式の記録に登場しておらずどこの誰かも分からない(みたいに見える)空海が、同じ船に乗るわけないってw、みたいに言われてた気がするけど、
空海、遣唐使たちと同じ船、つまり遣唐使船団の主船に乗ってるのよね。
主船の方が嵐に遭っちゃって目的と違う港に着いちゃうんだけど、その時唐の役所宛に、事情を説明する書類とか書きまくってるの、空海なのよね。
これは今回の授業とは別に、私がふんわりと思ってきた事なんだけども、当時の僧侶って、今で言う外交官だよね。
(言ってしまうと現在の僧侶のイメージは最澄が作ってるよね。)
前に言った大学も「(主に国内向けの)役人養成機関」だしね。漢文学んでるし外交要素が無いわけじゃないけど、唐からの最新知識は僧侶が運んでたよね。
「三十年学ぶはずが二年で帰っちゃった」って?
桓武天皇の命令で留学したのに、たったの2年で帰って来たものだから、数年間太宰府に留め置かれた、とこれまで聞かされていたんだが、
そんなわけないじゃん、とは思っていたんだが、
いや、2年で充分に習得し終えたんだ、という空海伝説を否定したいわけじゃなくて、
桓武天皇は本当にそんなに長い期間学ばせるつもりだったのか? と。
どうやら空海、せいぜい2年くらいで帰る腹づもりでいたよね。なぜなら桓武天皇が崩御して、平城天皇に変わりそうだったから。
案の定、空海が帰国する五ヶ月前に、平城天皇が即位して、即位直後から桓武時代の政策は、次々と変更されている。遣唐使も廃止になったから空海が帰って来たのが、最後の遣唐使船だった。
帰らざるを得なかったのもあるけど、空海の方でも帰る準備急ピッチで進めてたでしょ。
そして今回の講義で面白かったのは、空海は太宰府に留め置かれたと言うよりも、
自ら太宰府に居残って、同じ遣唐使船に乗っていた高階さんに、天皇に宛てた『御請来目録』託してんの。
「たったの二年で帰って、すみませんでした! だけど、バッチリ勉強してきたし、唐からこんなにたくさんの経典とか宝物持って帰って来たから許して下さい!」
(ごめんなさい。超意訳です。)
みたいに書いてあるから、「もっと長い留学期間をたった2年で終えた」説が広まっているんだけども、
この『御請来目録』は、平城天皇からガン無視されて放置される。
そりゃ留め置かれてたわけだ。そもそも唐に送り出した天皇から代替わりしたんだもの。
平城天皇にしてみたら、帰国してる事にも気付いていなかったかもしれない。唐でまだまだ勉強してなきゃならない奴から手紙来てるぞ。ほっとけ、くらいだったんじゃないか。
しかし空海は老獪(したたか)
空海がガン無視されたまま、太宰府に留まっていた間にだ。
伊予親王は無実の罪を被せられて非業の死を遂げ、伊予親王と関係が深い人たちは、ことごとく役職を解かれたり流罪になったりした。
阿刀大足は(多分)役職を退いて無事。だけどその次に伊予親王の文学になった浄村浄豊は失脚している。(後に空海が復官の嘆願書を書く。)
しかし平城天皇は病弱だったので、即位してたったの四年後に、弟の嵯峨天皇に譲位して、
嵯峨天皇が即位した途端、『御請来目録』が読まれて、空海は京に呼び戻された。
ってか空海、平城天皇はガン無視するだろうって分かってたよね。
それでも託しておいたらね。「前の主上が私の事を忘れてただけでーす。私はちゃーんと仕事してましたよー」って証明になるからね。
「すみませーん!」って平謝りしておけば表向きは波風立たないしね。
京に帰ったら伊予親王に近しい人物として、無理やり連座で処刑させられる事も、そりゃ官人に友達多いんだから分かってるよね。
と言うより桓武天皇による唐留学自体が、もしかして空海、亡命させてもらえてたんじゃないのか?
そりゃ嵯峨天皇や、その次の淳和天皇(嵯峨天皇、伊予親王の弟)から、伊予親王の追善法要頼まれたり、
伊予親王の子、高枝王に書を教えたりして、
京都に戻ってからは東寺与えられるほどの大活躍になるわ。
なんで空海、嵯峨天皇からそこまで気に入られてんの? って正直これまで不思議だったのよね。
空海自身も追善法要の文章で、伊予親王の人柄なんかを明記して、哀悼の意をふんだんに表明している。
これは私の推測なんだが、真魚くん、空気読むの苦手か嫌いだったんじゃないか。
その場に応じた和歌を詠んでは全体の調和を求める、官人の表現形式が当たり前だった時代に、自分本来の思いの丈をなるべくそのまま書き表したいとなると、当時は漢文しかなくて、
ある程度は漢文詩作を極めるための僧侶じゃなかったか。
普通に青年期から極太の人脈を築けていたという話だった。
ああ。しかし繰り返しになるが、私はそれだから空海が好き。普通に人間であってこそ好き。
余談
ところでこの桓武天皇、平城天皇、嵯峨天皇の流れは……、
ちょっと調べただけでも「ああ……」と溜め息がこぼれる、大規模、かつ悲惨な事件がたくさん出てきます。
そこ追及しちゃうと空海がぼやけまくるので書きませんが。
ちなみに現代の我々がイメージする「平安時代」、いわゆる藤原氏隆盛時代は、空海が活躍した時代から約100年後。
国風文化、つまり日本古来の神道や和歌が大流行して、当時の親世代祖父世代に流行していた仏教や漢詩なんかは、外国からもらったものをただ真似したみたいにカッコ悪く見えちゃったんでしょう。
空海の存在も一時期忘れられかけていて、もしかすると偉業の記録も失われたり、その頃人気だった別の人に置き換えられたりしたのかもしれない。
以上です。
ここまでを読んで下さり有難うございます。
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