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いとも容易く多用される臆病な言い回し

 「子供たちがかわいそう」
 といった考え方に言い方は、
 なるべく改めた方が良い、
 と私、偏光は思っている。

 「私は『(今の)子供たちをかわいそう』だと思っている」
 と述べた上で、
 なぜそう思ったのか理由を挙げる筋合いがある。

 「かわいそう」とされてしまった側は、
 まず「かわいそう、と感じるのが正しい」と感じ、
 その感覚を前提にして思考するようになるからだ。

 「子供たち」に限らず、
 我が国の言語は主語を明記しない、
 つまり意識の主体を明確にしない事が可能であるため、
 こうした感覚・思考の融合が起こってしまいやすい。

 「おばあちゃん寂しいですねぇ」とか、
 「社員は皆創業者の理念を引き継いでいます」とか、
 「あの人は周囲を見下している」とか、
 実例は日常的にいくらでも耳にする。

 共同体意識が構築されやすい一方で、
 共依存関係にも陥りやすい。

 「私は」をまず口に出して、
 そこからの、意識の流れを観察してみると良い。
 問題と思われている大半が所詮は、
 周囲との比較である事に気付くだろう。

 自分と他人とをはっきり分ける事は、
 実は他人のためにも親切だ。
 思考の筋道が見て取れるようになり、
 対策が講じ切れる。

 「モラルで片付ける奴は無策」だと、
 私は環境系大学時代にまず叩き込まれたが、
 「モラルで片付けたくなる思考を生み出す要因」は、
 主語を明示できない臆病さにあるよな。

 なのでまずは主語を明らかにしてみろと提案する。

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岡埜 由木古(偏光) 何かしら心に残りましたらお願いします。頂いたサポートは切実に、私と配偶者の生活費の足しになります!