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三島由紀夫『絹と明察』

 はじめましての人も、前から知ってる方も、ごきげんよう。
 岡埜おかの 由木古ゆきこです。

 三島由紀夫作品の感想記事です。↓

 フィクサー岡野おかのの暗躍w(・∀・)

2025年11月11日
(文字数:約2300文字)


  『絹と明察』
  1964年発表 新潮社文庫 1987年発行


近付き切れないところがある

 川端康成も芥川龍之介も太宰治も、とりあえず一作品は読み終えているんだが、

 物心ついた時から、自殺願望とはまた異なる、精神症状としての希死きし念慮ねんりょに苦しめられてきた身としては(私は望んでいない。望む声が常に聞こえてくる)、作品を読む度に、文章を目で追いかける度に、小説の主人公たちと筆者本人は別物である事を小説家としては理解していても、そうした思考に引きずられてしまいそうで怖い。

 その中でも三島由紀夫は異色だ。あの堂々たる最期の選び方に、私だけは魅了されてはならない。確実に追随してしまう。
(更に言えば私の故郷における親世代にとっては、文章、あるいは演説、の無力を証明した事件、として冷笑気味に理解されていた。「小説なんか書くような奴は、まずまともな精神じゃないし、まともな人生を送れない」などと、酒の席程度の場で、しかし繰り返し断言されてきたものである。)

 だからこそ三島氏の享年を迎えるまでは、読んでみようと頭に思い浮かべる事さえ不可能だった気がする。

 俺は○○打ってでも死なずに書き続けてやる、
 みたいに宣言してくれた坂口安吾に、それはそれは絶大な安心感を覚えるんだ。小説家であるからには私も坂口側に居たい。


内容をざっくり

 アメリカ式経営に移行し尽くそうとしていた、昭和50年代の日本で、旧態依然の大家族的経営を続ける駒沢紡績の社長、駒沢こまざわ 善次郎ぜんじろう
 ライバル会社社長、村川の意を汲んだ岡野は、駒沢と付き合いを求めつつ水面下で紡績工場の若者たちを操作、昔馴染みの芸者も女子寮の寮母として送り込み、労働争議を起こさせる。

 明察、という小説のタイトルとしては珍しいけどクリアなワードと、戦前戦後の紡績業に興味があった事、そして主要人物の名前が「岡野」だったので選んだ。

 私の旧姓であり筆名と同一なんだが、故郷以外ではそれほど見当たらないし、創作物にもあまり使われないから、なるほど、自分の名前が頻繁に出てくるとこんな気分になるんだと、新鮮な気持ちで読み進めた。


「社員は家族」とか言ってる会社

 住み込みの工員たちを、「娘たち」「息子たち」と呼び、愛情を込めて育てていると語りつつ、彼ら一人一人の顔に名前は覚えておらず、改善要望を訴えた者には「父に楯突く無礼」を教えるために、懲罰勤務を課す。

 ……ヤバイよねそんな社長に重役、
 ってか現代にもおるやん普通に。

 アメリカ旅行中もマグロの寿司に喜んだり、労働争議の第一報が入っても北斎を観に行くと聞かなかったり、不倫相手としっぽり過ごした翌朝太ももを撫で回しながら「こりゃ本絹や」とか宣ったり、いかにもな分かりやすい俗物、
 ……と言い捨て切れたらさぞ清々しいだろうな。私の目には普段よく見かける関西商人だ。

 フィクサー岡野と、彼が関わったり差し向けたりした人々の視点から、話の大半が進むのだが、同程度に駒沢善次郎本人はもちろん、肺を病んで長く入院する駒沢の妻や、労働争議のリーダー大槻おおつきの彼女の視点も入り混じってくる。
 しかし彼ら全員が視線を向ける先は、常に駒沢善次郎なので、気が付けば読者も駒沢善次郎を中心に据えて、全体を眺めてしまっている。

 そんなわけがない、こんな社長軽蔑するしかないよ、
 と思いたい人もいるかもしれないが、気が付けばライバル会社の村川を、切れ者かもしれないが、なんかいけすかん嫌な奴に感じてしまっているでしょう?


小説の利点にして欠点

 小説という形式の、最大の利点であると同時に、合わない人にはどうしたって合わない欠点にもなってしまうと、私は思っているのだが、
 登場人物それぞれの、その時々その場面での心境を、微細に渡って克明に書き記す事が出来る。

 一人物の内側にある矛盾も、複数人物間に生じた誤解や思い込みも、筆者だけは正確に把握して書き表し切れていれば、読者だけは明確に読み知る事ができる状態だ。

 映像作品ではそうはいかない。同じ厚みでモノローグを入れようとすると冗長になるし、あくまでも表に出た外側から見て分かる部分のみが、真実であるかのように存在させられてしまう。
 時間の制約も受けるため、労働争議を起こした若者たちと、社長を筆頭とした重役たち、どちらが勝つか(どちらが正しいか)、程度の表層的な理解に留まってしまいかねない。

 小説だからこそ、駒沢善次郎を中心に据えてきた、その影響が、駒沢善次郎本人も含めた登場人物一人一人の内面や、複数人物あるいは集団の関係性に、徐々に広がり染み渡っていく様子を読み味わえる。
 現に最終章である第十章のタイトルは、「駒沢善次郎の偉大」だ。

 駒沢の思想に経営を、侮って嘲笑してきた者ほど、その偉大とやらを見せつけられておののくぞ。
 ってかだから、現代にもおるやん普通に、なんだよな。恐ろしいだろ。

 まぁ、根本の一条において盛大に間違っているんだが、

 と私は両陣営に対して断言できるんだが、

 という事は三島氏にも、当時の社会通念に従っており明確な主張はしていないまでも、間違いを抽出して明示する意識はあったのかもしれない。


以上です。
ここまでを読んで下さり有難うございます。 

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