町石道に向けて(7、もう一つの町石道)
はじめましての人も、前から知ってる方も、ごきげんよう。
岡埜 由木古です。
全ての始まりがこれだ↓

出来へんやったんちゃうかったんかい?
(文字数:約3200文字)
町石道には二種類ある
真言密教では仏の世界が2種類の曼荼羅で表されていて、
山頂から慈尊院までの町石が180基。これは胎蔵界マンダラ中の仏の数を表していて、
山頂から奥の院御廟までの町石が36基。こちらは金剛界マンダラ中の仏の数を表している。
慈尊院側は180から157までで終了してしまったし、
私が習っている金剛講御詠歌の御本尊は、金剛界マンダラ、の中央に位置する成身会なのだから、
奥之院御廟側だけでも1番からたどって歩こうじゃないか。
と山頂について宿坊に入るまでに提案すると、配偶者は大乗り気。
(*・ω・)♪(・∀・)
なぜならこの男、十六歳くらいでバイクの免許を取ってからというもの、高野山に向かっては夜中の奥之院をただ一人で、懐中電灯の灯りだけで歩くのを、密かな楽しみにしていて、
そんなんを今は嫁が付き合ってくれる喜びに、三種類持って来た懐中電灯のうち一つまで貸してくれる。
使いなさい
(*・ω・)(・∀・)
ってか三つも持って来たんだ
起点は根本大塔
高野山の壇上伽藍にある、根本大塔を起点にして、
慈尊院側の一町目は、壇上伽藍へと入る中門の外側バス停そばにある。
奥之院側の一町目は、根本大塔から東側の石段を下りた所にある。
ところで高野山という町は夜も19時を過ぎると(表向き)終了する。
街灯こそ点いているが目に入る限りほとんどの店は閉まっている。
実は高野山にも住んでいる、僧侶や寺院向けに商売をしてきた一般町民のために(配偶者は寺院系ではなくこうした家系だ)、裏通りの店は開いていて結構賑わってもいるのだが、
観光客には基本的にそうした姿を見せていない。
わりかし暗い道のりを、一町ずつたどりながら歩くのだが、何せ暗い事もあり町石が、思いの外見つからない。
七町目だ
(・ω・)(・∀・)?
六町目見逃したね
まして一の橋から奥之院に入ろうものなら、町石の上端部分って、五輪塔型、つまり奥之院中に並びまくった主に江戸時代以前のお墓と、同じ形なんだもの。
暗いし至難の業だね
(;・ω・)(・∀・;)
町石ごとに建てられた年代も異なるので、相当に古いと廿や卅なんて文字が刻まれてあったりもする。
くずし字だったりもして尚更読めない。
↓
似てると思ったけど違うね
(・ω・)(・∀・)いやこれだよ
夜中の奥之院
付き合い始めたばかりの配偶者は言ってきた。
「ゆきこさんは、墓地は好きですか?」
それに対して私は焼き鳥を食いながら答えた。
「お墓? 好きだけど」
「それは良かった。良い墓地があるんですけど今度行きませんか」
「ちょっと待て。まずは二十代のうら若き娘が墓地を『好きだ』と答えた事に驚いて欲しい。その上でどこのどういった墓地かを明らかにしてくれない事には、貴方は人によってはとんでもない誤解を受ける」
ガチでリアルに上のような会話を繰り広げたんだが、その時配偶者が言った「良い墓地」がつまりは高野山の奥之院であり、配偶者にとっては子供の頃からの遊び場の一つであり、
私が墓地にそれほど怖い印象を抱いていないのは、故郷の墓地は日当たりが良く緑に囲まれた場所にあって、三百年にわたって岡埜一族しか葬られていなかったもので、墓地というより「ご先祖様のお家」と呼ぶような教育を受けていたからだ。
そんなわけで奥之院くらいは我々全然平気で怖くもない。
良い雰囲気でしょ落ち着くよね
(*・ω・)(・∀・)
とは言え私は道両脇の灯籠が点ってるからだな。真っ暗だとさすがに怖いだろう。
強いて言うならだから町石が見つからない。
礼儀は重んじたいので探り出すような無遠慮な灯りを道の両側に差し向けるのも避けたい。
なぜならちょっと見えるので
↓
(;・ω・)(・∀・;)
↑
見えないけど分かるので
逆に言うと礼儀を重んじていれば無難だよ。元はヒトかヒトの念だし。
そして奥之院御廟
約1時間かけて20時頃に御廟に着く。
配偶者の祖父と父も、ここの納骨堂に喉仏だけ納めてあるので、我々にとっては普通に墓参りの一環でもある。
しかし御廟にあるというラストの36町目が見つからない。
どこー? あれー?
(;ω;)(・∀・;)
翌朝も生身供(お大師様に毎日の食事を捧げる儀式)を見るために奥之院を訪ねて、夜は見逃した分も35町全てを見つけ出せたのに、
ラストの36町目だけが見つからない。
ここまでくると私以上に見つけたい
↓
どこー?
(TωT)(・∀・;)
これはもしかするとラストは御廟そのもの、といった一種のロマンじゃないか?
そうかなぁ 多分
(;ω;)(・∀・;)
帰ってから調べてみたところ存在はしているようだけど、立ち入り禁止の場所らしいから見つけ切れなくても仕方なかろう。
無事に帰れた
(ーωー)(ー∀ー)
さすがに疲れた
↑
しかし私だけは今週のまた別の日に、御詠歌を唱えに高野山に上る。
信じられなくとも構いはしない
ところで私は墓とか神社に向かって手を合わせる間は、目を閉じているのだが、その間に様々な色や光や形を見る時があって、
夜20時頃の奥之院御廟に向かった時は、あぐらで座っている人のシルエットが見えた。
お大師様いてんで普通に
(・∀・)(・ω・)
貴方そういうの見えるのスゴイ
宿坊はなかなかに良いお部屋でして、配偶者は疲れもあってか即熟睡。
私は夢の中にもおそらくお大師様が出てきて、めっちゃ関西弁で話し続けられる。
朝5時頃に目を覚まして、これは記録しとこうとメモした内容が以下の通り。↓
高野山では全てがつながってんねんで。
渾然一体となってただ流れてるだけやで。
そこに理由とかないねん。
人の一生は因から果に向かって進んで行くただ一本の線や。
(「南方マンダラ」あんた読んだよな?)
人に出会う度に縁が生まれるわな。
縁の先でもまた人に出会ってまた縁が生まれるわな。
縁は無数に生まれて木の枝みたいに広がっていくわな。
そういうこっちゃねん。
あんたの一生そないしたもんやで。
納得しながら生きるっちゅうことが、どんだけ難しくて、それが出来たら大したもんか分かるやろ。
悟るっちゅうのは超越でも優劣でもないねんで。
ただだた吾を自覚しておくことやで。
人がそれぞれ本来持ってる自分自身の核の部分、これがすなわち仏なわけやけども、そこをなるべく常に意識しといて、感情に振り回されたらあかんねん。
感情はただ縁からその時々に発生するもんやからな。
感情は、あってもええで。口に出してもええで。
人にぶつけても何も悪いことないで。縁が出来るだけのことやねんから。
(縁が悪さする事は当然にあるやろうけどな。)
ただあんた本来のもんじゃない事は覚えときや。
配偶者にも聞かせる。
(・∀・)“(・ω・)うん
まぁそうだね
……こんなん自分の頭だけで考えて出る事ちゃうと、自分では思ってるんやけどもどないやろ。
(脳の奥底で無意識に、これまで見聞きしたもんを繋げているだけ、という可能性は十分に有り得るし否定しない。)
つまりこんな感じに私の小説も出来てくるわけやけども。
(・∀・)“(・ω・)うん
まぁそうだね
以上です。
ここまでを読んで下さり有難うございます。
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