第193夜 カマクラジン
「その一本筋の通った性格は何がそうさせてるの?」
上司の海老沼さんが聞いてくる。
「別に変わったことはありませんが、鎌倉という土地の空気を吸ってるとこうなるんんじゃないでしょうか」
「じゃあみんなそんな性格なわけ?」
「全てがそうではありません。きちんと早朝の清々しい空気を吸ったかどうかが大切です」
「カマクラジンかあ」
これは土地に住み馴染んだ者でも、頼朝の陣営でもなく、文字通りジン、抽出蒸留酒の事だ。海老沼は酒豪ではないがジンにやたら詳しい。高血糖値のなすがまま日本酒やビールから遠ざかり、焼酎やウオッカの末、ジンに行き着いたそうだ。
「この独特の香りは?」
「八幡宮の蓮です」
「あの源平池の?」
「そうです。蓮の花弁や雄しべの香りが入っています」
「蓮茶ってのがあるものね。だからかあ、とてもオリエンタルな感じがする。蓮は泥から出て泥に染まらずなんて言われるから、口に含むと身が引き締まる気がする」
海老沼さんは余暇はヨガに精を出すヨギーニだけに、摂取するものの内容や意味にはやたら拘りがある。
「海老沼さんがジンをお好きなのは、そういったボタニカルな成分が入っているからですか?」
「それは大きいわね。甘みのあるスロージンは疲れた時にはいいけど、やはりキリッとしたドライジンで、それぞれに溶け込んだボタニカルとその生い茂る環境に想いを馳せながら口に含むのがこのお酒の醍醐味ね」
「この鎌倉ジンは一本筋の通った性格とおっしゃいましたけど、どんな景色が浮かんでいるのですか?」
海老沼はあらためて一口含み瞳を閉じる。数歳年上だが若い頃からの評判通りクールビューティを維持している。ブラウン系のシャドウの細微なラメが、閉じた瞼の眼球に沿った丸みを際立たせゴージャスな円熟を感じさせる。
「まだ朝靄が辺りを包んでいる源氏池。一面の蓮。屹立した茎が剣山のようで、大きく開いた花やまだ時を待つ蕾が混在してる」
海老沼さんはさらに瞳を閉じたまま、先程口に含んでそのまま留めておいた液体を喉に流し込みながら、
「ヒンドゥでは蓮はシヴァ神の象徴。シヴァは破壊と創造の神。この世の最高神。シヴァが織りなすピンクと緑による靄のようなグラデーションと言ったら…」
海老沼はそのまま涅槃に向かってしまうのではないかというような恍惚の表情で想像の沼に潜っていく。昼間はあんなにも大胆な決断で人の倍ほどの案件をこなすこの上司が、わずか2杯のジンによって身体離脱している。でもそれは別に変なことでも何でもない。ジンとは地上にともに生きる植物と対話する手段である。つまりアルコールによって消化器ではなく脳へ摂取させることで記号など介すことなく通じ合うことができるのだ。海老沼さんの恍惚はまさにその真っ最中の現れだ。
「海老沼さん、海老沼さん…」
カウンターに置いた両腕を枕に潜り込んでしまったようだ。まさに睡蓮の中へ。
