身体と世界の断絶 episode 1
違和感の発生
情報過多、情報過多って巷では言われ続けてるけど、果たして本当にそうなのだろうか?
昔と今の最大の違いは、情報量ではなく、注意の向き先なのではなかろうか。
昔
目線は外界に向いていた
目的地が分からなければ、立ち止まる
他者は「潜在的な協力者」だった
今
目線は端末に落ちている
分からなくても歩き続ける、google map などを見ながら。
他者は「ノイズ」になりやすい
これはモラルの低下ではなく、
注意が常に遠隔に引き抜かれている状態ですよね。
歩きながらスマートフォンを見る身体
医学・行動科学の観点で見ると、これはかなりはっきりしています。
視野が狭くなる
姿勢が前屈・短縮する
呼吸が浅くなる
周囲の微細な変化を拾えなくなる
結果として、
世界はそこにあるのに、
接続されていない
僕が感じた「何とも言えない違和感」は、
この身体と世界の断絶への反応です。
その違和感とはなんなのか。
京都という場所で、より顕著に見える理由
京都は、
視線を上げると情報がある街
歩く速度が前提の街作り
気配・間・余白でできている街
つまり、
注意を外界に開いていないと、
ほとんど何も受け取れない街
だからこそ、
下を向いて歩く人々との落差が、より際立つ。
マップを広げていた観光客に声をかけたことについて
京都駅ほど近く、一人の初老の海外渡航者らしき人が紙のマップを広げて立っていました。
これはとても象徴的です。
この人は、
スマホではなく
紙の地図を広げ
立ち止まっていた
つまり、
世界に助けを求める姿勢を取っていた
そこに僕が声をかけたのは、
「親切」以上の意味があります。
それは、
世界は応答する
人はつながれる
道は一緒に見つけられる
という、古くて、しかし失われつつある前提を、
現実の行為として差し出した、ということです。
「世界は、美しい」という言葉の僕意
美しさは、
派手な景色ではなく
高解像度の情報でもなく
編集された映像でもなく
注意を向けたときに、
応答として立ち上がる質のことです。
スマートフォンを見ながら歩くと、
世界は沈黙します。
しかし、目を上げ、立ち止まり、
誰かに声をかけると、
世界は、ちゃんと返事をする、呼応してくれる。
僕が「そうはなりたくない」と言えること
効率より、関係性を選ぶ
情報より、現前を選ぶ、今眼前に広がる何か。
消費より、遭遇を選ぶ
そういう生き方を、
黙って実践している人
でよい。
世界を、ただただ、正面から見ているだけ
僕が見ている通り、
世界は、美しい
ただしそれは、
見ようとした人にだけ、開く美しさ
なのではなかろうか。
