ADHDでワーキングメモリが高いのに忘れ物をする理由――WMI141の僕が牛乳を買い忘れるまで
「牛乳は?」
買い物袋を台所に置いた瞬間、妻にそう聞かれた。
僕は袋の中を見た。
卵はある。
ドレッシングもある。
安かった豆腐もある。
なぜか予定になかったお菓子もある。
でも、牛乳だけがなかった。
頼まれていたのは、牛乳だった。
それも、家を出る前に聞いた。
歩きながらも、たぶん覚えていた。
スーパーに着いた時点でも、まだ頭のどこかにはあった。
それなのに、帰ってきた僕の手には牛乳がなかった。
この瞬間の気持ちは、かなり嫌なものだった。
ただの買い忘れなら、笑って済ませられる日もある。
でも、僕の中では笑えなかった。
なぜなら数年前、WAIS-IVという知能検査で、僕のワーキングメモリ指標は141――心理士の先生からも、かなり高い数字だと言われた――だったから。
ワーキングメモリは、ざっくり言えば、頭の中で情報を一時的に持ちながら動かす力だ。
短い数字を覚える。
頭の中で計算する。
聞いた情報を一時的に保持する。
そういう力のはずだった。
その数値が高いのに、牛乳を忘れる。
この矛盾が、僕にはずっと気持ち悪かった。
数字が高いほど、ややこしくなる自責
もし検査結果でも「記憶が苦手なんですね」と言われていたら、まだ分かりやすかったかもしれない。
ああ、自分はそういう仕様なんだな、と受け止めやすかったと思う。
でも、結果は逆だった。
ワーキングメモリは高い。
それなら、覚えられるはずなのに。
それなら、できるはずなのに。
それなら、牛乳くらい買えるはずなのに。
この「はず」が、自分を殴ってくる。
家事の小さな失敗。
返信の抜け。
買い忘れ。
頼まれごとの抜け漏れ。
一つ一つは大事件ではない。
でも、そこに「WMI141なのに」という注釈がつくと、急に自分への判決みたいになる。
高性能なはずなのに、日常が雑に崩れる。
この落差がつらかった。
WAISの部屋と、スーパーの通路は違う
あとから少しずつ分かってきたのは、WAISの検査室と日常生活は、かなり違う環境だということだった。
検査室はある意味で理想的な環境だ。
目の前には心理士の先生しかいない。
課題は一つずつ出される。
余計な商品棚もない。
値引きシールもない。
スマホ通知もない。
つまり、脳にとってはかなり整った場所だ。
一方、スーパーは違う。
入口でカゴを取る。
今日の献立を考える。
値段を見る。
冷蔵庫の中身を思い出す。
横から別の商品が視界に入る。
レジの混み具合も気になる。
牛乳という一つのタスクを持っているつもりでも、通路を歩くだけで別の処理が次々に立ち上がる。
僕の脳は、その割り込みにかなり弱い。
ワーキングメモリの容量があっても、そこへ横からいくつも荷物が投げ込まれると、最初に持っていたものが奥へ押し込まれる。
記憶から消えたわけではないけど、買う瞬間に手前へ出てこない。
牛乳は、僕の頭の中から完全に消えてはいなかったけど、ただ、レジを通るその瞬間に取り出せる位置にはなかった。
問題は、覚える力ではなく「保存前に流れる」こと
昔の僕は、何かを忘れるたびにこう反省していた。
ちゃんと覚えておけ。
気を抜くな。
メモリが高いなら使え。
次は忘れるな。
でも、この反省はあまり効かなかった。
問題を置く場所を間違えていたからだ。
僕は、「牛乳、牛乳、牛乳……」と記憶に刻み込むことが弱いのではなかった。
頼まれたタスクを、「割り込みに耐えられる形で保存する」ことが苦手なのだった。
頭の中だけに置いた「牛乳」は、スーパーの刺激に弱い。
ドレッシングの棚を見る。
夕飯のことを考える。
値引き品を見つける。
レジの列を確認する。
そのたびに、牛乳タスクは後ろへ回る。
高性能なRAMがあることと、こまめに保存されることは別の話だった。
僕の脳は、作業中の情報を一時的に持つ力はある。
でも、日常の割り込みの中で、その情報を「安全な場所へ退避」させる仕組みが弱い。
ここが見えたとき、少しだけ自責の向きが変わった。
「なぜ覚えられないんだ」ではなく、
「そのタスクは、いつ保存された?」
と見られるようになった。
まず見るべきは、能力ではなく保存地点
牛乳を買い忘れた日の問題は、たぶん牛乳そのものではない。
そこには、もっと広い構造がある。
頼まれごとを聞いた。
その場では理解した。
頭の中では「やる」と思った。
でも、外へ保存しないまま次の場面に入った。
そして、割り込みの多い場所で流れた。
これが何度も起きていた。
だから最初に見るべきなのは、ワーキングメモリの高さではなく、そのタスクが、頭の外に保存されていたかどうかだった。
この見方に変えると、反省が少し扱える形になる。
「僕はだらしない」ではなく、
「保存前に次の画面へ進んだ」
と見られる。
この先で書くのは、その保存地点を生活の中に作る話だ。
記憶力を鍛える話ではないし、牛乳くらい忘れない立派な人になる話でもない。
割り込みに弱い脳でも、悪い日には悪い日なりに、タスクを外へ逃がすためのかなり地味な運用だ。
ここまででは、WMI141でも牛乳を忘れるのは矛盾ではなかった、ということを書いてきた。
問題は、覚える力の不足ではなく、割り込みに耐える保存地点が頭の外にないことだった。
この先では、頼まれごとを「覚えておく」から降りて、生活の中に小さなセーブポイントを置いていく。
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