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小説|サクラとモリが満開の下(あるいは、もう少しだけ冷たい何か)

 「桜の花の下から人間を取り去ると怖しい景色になる」と堕落を勧める作家が書いたのを読んだことがありますが、それは昭和の始めの頃の話で、近頃の桜は公園や道路にすっかり飼い慣らされて、群れをなして通る人の恐怖をかきたてるようなものではありません。

 残業帰りのモリさんがサクラを見つけたのは夏のことで、当然まだ桜は花をつけておらず、ひとっこ一人いない真っ暗な公園の、一本だけある、桜の木の下にあるベンチの上で、ほんの通りすがりに、公園の柵越しに、白い猫がじっと座ってこちらを見ているのをみつけても、怖しいともなんとも思いませんでした。ただ、美しい猫だな。そう思いました。暗闇を照らすような純白の毛並みと水色の目。吸い寄せられるように、ふらふらとモリさんは公園の中に入りました。猫は近寄っても逃げません。手をのばすと、少し指の匂いを嗅ぎました。そのまま抱いて、公園を後にしました。

 胸の前に猫の腹をつけて、前足を肩に乗せながら歩いていると「嫌よ。嫌よ。」とでも言うように猫が肩の上によじのぼろうとしてきます。その度に猫の上半身を優しく抱いて、またしっかりと腹の前に抱き直しました。抱き直すたびに、水色の猫の両目が不思議そうにモリさんを見つめました。「よしよし。」そう猫に話しかけるとき、一人暮らしの小さなアパートに、これからこの美しい生き物がいてくれるのかと思うと、とろけるような幸福を感じました。小さな頭をきゅっと胸におしつけて、今にも走り出したいような気持ちにかられました。

 他の住人に見られないよう、モリさんは注意深くあたりを見回しながら、ようやく自分の部屋に辿り着きました。暗い部屋のあかりをつけて、ベッドに体を放り出して、抱いていた猫を離してやりました。残業疲れもあってか、重い体がどこまでもどこまでもベッドに沈み込んで、そのまま地球の裏側まで沈んでいってしまいそうでした。泥のように濁った頭で、それでもモリさんは考えました。「サクラにしよう。」猫の名前でした。「桜の花びらみたいに、真っ白だから。」
 誰に言うでもなくそう呟くと、不思議と笑顔になりました。サクラがすぐ横に座って、水色の目で自分をみつめています。「サクラ」と呼んで頭をなでると、頬を舐められました。強引に抱き寄せます。短く、柔らかい毛並み。そのまま寝てしまおうと力が緩んだ途端に、するりと腕から逃げていきました。

 サクラは、大変わがままな猫でした。すぐにわかったのは、赤身の魚は食べないことでした。煮干しも、少し古くなるとぷいと顔をそむけます。サクラが気に入るキャットフードを探しに、モリさんは少ない休日を、一日中買い物に費やす羽目になりました。
 撫でられるのを嫌う猫でした。自分の毛並みに誇りをもっていて、みるたびに舌で綺麗になめっとたり、前足でなで回したりしていました。モリさんが戯れに触ろうものなら、ぷいと不機嫌になって、尻尾をたてて、走って逃げ出し、それから遠く離れた所に座り込んで、また自分の毛を舐めたりなでたりするのでした。
 きれいな猫だな。眺めながらモリさんは思うのでした。ため息さえつきました。水色の目でじっとみつめられると、自分の中の空っぽの何かが満たされるような気持ちにすらなりました。
 時折、ほんのきまぐれに、甘えるようにサクラが擦り寄ってくることがありましたが、触るとまた逃げてしまうので、いつも、その度に、モリさんは銅像のようにじっとして、サクラの好きなように擦り寄られたり、舐められたりしてあげるのでした。

 ある日、サクラがネズミをとってきました。古いアパートでしたから、ネズミぐらいいるだろうな、とモリさんは思いました。サクラが前足で地面に転がしている小さな灰色の生き物は少し動いていました。まだ、生きているのか。少しだけ、嫌な気持ちがしました。そっと手をのばしてみると、今まで見たことがない声を出して、サクラが毛を逆立てました。前足が素早く、差し伸べられたモリさんの手をかすめます。火のような熱さ。引っ込めた右手の甲に白い引っ掻き傷ができて、そこからぷつぷつと赤い血の玉が滲みました。モリさんが自分の手の甲を見つめている間に、サクラは獲物を掴んで逃げていきました。次にモリさんがその獲物を見たのは部屋の隅で、傷だらけで、ぼろぼろに丸められて毛むくじゃらの団子みたいな姿になっていました。飽きて、捨てたのだろうな、と辺りにサクラがいないのをみてモリさんは思いました。また遊び出さないうちに、ゴミ袋にいれて捨てました。

 一体どこからとってくるのか、サクラの『ネズミ遊び』は終わりませんでした。毎日のように捕まえてきては、転がして遊ぶようになりました。ネズミではない日もありました。モグラや、コウモリ。小さな生き物をいじめて遊べるなら、なんでもいいようでした。狩猟本能かと思ったモリさんは、ご飯の量を増やしてみたり、おもちゃを買ってきてみたり、いろいろと手を尽くしましたが、一向に止める気配はありません。サクラが飽きた獲物を捨てる場所はいつも同じでした。モリさんが片付けているのが分かっているようでした。

「すいません。」
会社に行く前に寄るアパートのゴミ集積所で、住人に話しかけられました。みかけたことがある程度の知り合いでした。気まずそうに頭を書きながら、コピー用紙に印刷された写真を渡してきました。
「飼っていたハムスターが逃げちゃって。もし、みかけたら、教えてください。」
モリさんがうけとってうなずくと、頭を深く下げて建物に戻っていきました。嫌な予感がしました。写真を見ます。丸々と太った、白と茶色の毛並みのハムスター。少し寒気がしました。けれどすぐに消えました。急いで会社に行かねばならなかったからです。サクラを拾ってきた夜のように、モリさんはあまり物事を深く考えない質でした。

 会社が終わって、帰宅してみると、いつも通りサクラが遠くから水色の目で自分を見ていました。「ただいま」モリさんが呟きます。サクラのもとにゆっくり歩くと、珍しくサクラが逃げません。口に何かを加えていました。また、例の、ねずみ遊び。もう、諦めていました。何も感じません。けれど、いつもと少し違うようでした。肉団子の色です。白と、茶色の。朝の寒気を思い出しました。今度は、消えませんでした。「サクラ、それ。」思わず手をだしました。以前のことは覚えていたのに。鋭い一撃。けれど今度は手を引きません。「サクラ、離して。サクラ、サクラ、サクラ!」。傷ついたのを構わずにサクラの首の後ろを掴みます。爪と牙の届かない所。蹴られないように後ろから抱いて顔を毛並みに押し付けてくり返しました「離して、お願い。離して。」

 唸り声は止みませんでした。しばらくは。いつまで経ってもモリさんがサクラを離そうとしないので、根負けしたのか、ぽろりと獲物を口から離しました。にゃむにゃむと、気まずそうに何か唸って、静かになりました。
 モリさんが恐る恐る足元をみると、やはりそれは血塗れのハムスターでした。もうとっくに手遅れでした。寒気は消えました。その代わり、何か、冷たいものが自分の腹に流れ込んでくるような心地がしました。モリさんはサクラを離しませんでした。おとなしくなったサクラを腹の方を自分に向けて抱きなおしました。そして黙ってアパートを出ました。

 季節はもう春になっていました。モリさんはサクラを拾ってきた時のことを思い出していました。今でも、鮮明に思い出せる、サクラの美しさ。けれど、あの甘やかな気持ちは蘇りませんでした。何か、もう、すっかり嫌になっていました。いつもと違う、と思ったのかサクラが爪をたててモリさんにしがみつきます。「嫌よ。嫌よ。」とでも言うように。肩によじのぼろうとするサクラをモリさんは押し戻します。小さくため息をつきました。

 公園が見えました。サクラを拾った、あの公園です。桜が咲いていました。暗闇に、桜の花びらがひそひそと散っていました。モリさんは一瞬切ないような気持ちになりました。サクラの頭を軽く撫でました。それから公園に入って、あのベンチに腰を下ろしました。

 頭上に、桜の花が、明かりのように白く咲いています。満開です。。「桜の森の満開の下」モリさんが呟きました。学生の時読んだ本の名前でした。それから、あの小説のように、自分が桜の花の狂気に飲まれて、この、困り物の猫を鬼と間違えてしまえないかと思いました。サクラがまた肩によじのぼろうとしてきて、モリさんはサクラを自分から引き剥がしました。そして、両腕に捕まえたまま、サクラの顔をじっとみつめました。

「お前のいた場所だ。」
水色の目が見つめ返してきます。
「戻るかい?」
サクラは、答えません。

花びらがひとひらゆらゆらと落ちてきて、サクラの顔に落ちました。サクラがちょっと顔をしかめました。モリさんは、ふっと、やさしく息を吹きかけて花びらを飛ばしてやりました。そして、それだけでした。サクラは鬼にもならないし、花びらになって消えてくれそうにもないのです。

狂ってしまえたら楽なのになあ。
モリさんはまた思いました。なんだかものすごく面倒臭くなりました。けれども、このままサクラをここに捨ててもいかれないような心地でした。またサクラを抱き寄せると、さくらが肩によじのぼってきて、ぺろりとモリさんの顔を舐めました。

 静かに、桜の花びらが散っていました。
 けれど、モリさんを覆い隠してくれそうにはありませんでした。
 桜の木が足りないんだろうな、モリさんは苦笑いをしました。たった一本だけじゃ、感傷に逃げ込ませてくれそうにない。立ち上がりました。昔読んだ話の終わりを思い出しました。ひとりぼっちになった主人公は、恐れていた桜の木の下に潜む孤独を、もう恐れなくなるのです。それは、彼自身が孤独そのものだったからでした。

 初めから、自分は怖くはなかったものな。モリさんはサクラの背中をなでました。ここじゃ、狂気も悲しみも底が知れてる。桜ですら一人ぼっちだ。そう思って、ため息をつきました。
 しょうがないね。お前も鬼にならないし、二人で花びらに埋もれて消えることもできない。桜を見上げると、なぜか少し、涙が出ました。
 「戻ろうか」小さくつぶやいて、歩き始めました。

ショートショート No.254

本作は坂口安吾の「桜の森の満開の下」のパスティーシュになっています。

青空文庫にあるような、いわゆる「古典的名作」を、読んだことがない方が読んでみたくなるような、短めのお話を作ってみたいな、と思っておりまして

なぜこの話かと言うと、昔好きで何度も読んだので、試作をするのに、とりあえず全部頭に入っていて、資料を読み込むのに時間がかからない作品だったから。

中学生の頃かなあ…。私はあんまり同じ本を読みかえす方ではないので、記憶するほど覚えているということはよほど好きだったのだと思います。確か、書き写していた覚えもある。

優しい文体で、おとぎ話調で、哀しみのようなものを抱えていて、文章が美しい。
全然、好み変わっていないのだな…と改めて読み返して苦笑いしました。

意外と作るのに時間がかかってしまったので、元気がある時に、また作ります。(勉強にもなるしね。)

…お腹が空きました。ご飯調達してきまーす。

2022年 5月1日 追記
杜埜 玖/KuU Morinoさんが朗読をしてくださいました。ありがとうございます!


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