ルドルフ・オットー『聖なるもの』試論①
はじめに
以下では、ルドルフ・オットー の主著『聖なるもの――神的なものの観念における非合理的なもの、およびそれの合理的なものとの関係について』(Das Heilige: Über das Irrationale in der Idee des Göttlichen und sein Verhältnis zum Rationalen, 1917)を読む。本稿の目的は、第一章「合理的なものと非合理的なもの」(Rational und Irrational)におけるいくつかの翻訳上の問題を検討しつつ、そこで隠蔽されているオットーの神性理解の構造を明らかにすることである。
オットーの探究は、単純に「非合理的な宗教感情」を称揚するものではない。むしろ彼の中心課題は、「合理的なもの」と「非合理的なもの」とが、神的観念の内部においていかなる関係を結ぶのかを解明することにある。その意味で、『聖なるもの』第一章は、後の「ヌミノーゼ」論全体を支える基礎的構制を提示している。
「用語」か「述語」か――久松訳の問題
オットーは冒頭で次のように述べる。
“Für jede theistische Gottesidee überhaupt, ausnehmend und überragend aber für die christliche, ist es wesentlich, daß durch sie die Gottheit in klarer Bestimmtheit gefaßt und bezeichnet werde mit Prädikaten wie Geist, Vernunft, Wille, zwecksetzender Wille, guter Wille, Allmacht, Wesenseinheit, Bewußtheit und ähnlichen …”
試訳すれば、次のようになる。
「総じてあらゆる有神論的な神観念にとって、そしてとりわけキリスト教的神観念にとって勝れて本質的であるのは、神性が明確な規定性において把握され、精神・理性・意志・目的設定的意志・善き意志・全能・本質的一性・意識などの述語によって表示されることである。」
ここで重要なのは、オットーがこれらを「Prädikaten(述語)」と呼んでいる点である。しかし、久松英二訳(岩波文庫)はこれを「人格的な特性を表わす用語」と訳している【注1】。
この訳語は単なるニュアンスの差異ではない。むしろ、「神性」と「人格性」の関係そのものを転倒させる危険を孕んでいる。
「述語(Prädikat)」とは、論理学的には主語に属する属性規定である。したがってここでの「精神」「理性」「意志」などは、自立した概念ではなく、「神性(die Gottheit)」という主語に従属する述語である。すなわちオットーは、「神性」を第一義的なものとして据え、その神性が人格的・理性的述語によって規定されることを語っている。
しかし久松訳においては、「人格的な特性を表わす用語」が先行し、それらを用いて神を理解するという方向へ読解が傾いてしまう。結果として、「神性」が中心なのではなく、「人間的理性」が中心であるかのような構図が成立してしまうのである。
この問題は、続く “Entsprechung” の訳語においてさらに顕著になる。
「対応」か「当てはめ」か
オットーは、人間が自己のうちに見出す人格的・理性的なものとの「Entsprechung」において神性が思惟されると述べる。久松訳ではこれが、
「人格的・理性的な要素を神に当てはめて考える」
と訳されている。
しかし、「当てはめる」は本来 “Anwendung(適用)” に対応する語であり、“Entsprechung” が意味する「対応」「照応」とは異なる。
両者の差異は決定的である。
もし「当てはめる」と訳すならば、先に人間的属性が存在し、それを神へ投影するという構図になる。これは近代宗教批判、特に ルートヴィヒ・フォイエルバッハ 的な宗教理解へ接近する。すなわち、「神」とは人間的本質の投影にすぎない、という方向である【注2】。
しかしオットーの文脈において重要なのは、むしろ逆である。人格的・理性的契機は、まず「神性」に属する述語として現れ、人間はその限定的・不完全な反映を自己のうちに見出すのである。したがってここで問題となっているのは、人間から神への投影ではなく、神性と人間的理性との「照応関係」である。
この構造を保持するためには、“Entsprechung” はやはり「対応」と訳されるべきであろう。
主語としての「神性」
以上の点から明らかなように、『聖なるもの』第一章において本質的なのは、「合理」と「非合理」の対立そのものではない。むしろ問題となっているのは、それらの契機が、いかなる仕方で「神性」に属するのかという点である。
オットーは、「理性」や「人格性」を神の本質そのものへ還元しているのではない。逆に、「神性」というより根源的な契機がまず存在し、その上で人格的・理性的述語がそこへ付与されるのである。
したがって、「述語」を単なる「用語」へ置き換えることは、単に翻訳精度を損なうだけではない。それは、『聖なるもの』における神性理解そのものを、人間学的・心理学的方向へ変質させてしまうのである。
(つづく)
注
「人格神を信仰対象とする宗教全般、とくにその典型であるキリスト教の神観念の本質的な特徴とは、神的な存在が、精神、理性、意思、決意、善意、権能、統合的本性、意識などといった人格的な特性を表わす用語で明確に把握され、表現されるということである。」 (オットー『聖なるもの』久松英二訳、岩波文庫、11頁、強調引用者)
フォイエルバッハの宗教批判および主語と述語の転倒という問題系については、詳しくはフォイエルバッハ『将来の哲学の根本命題』を見よ。
文献
Rudolf Otto, Das Heilige: Über das Irrationale in der Idee des Göttlichen und sein Verhältnis zum Rationalen, Breslau, 1926.
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哲学・社会思想史研究
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