『自分とか、ないから。』だから、ひとりじゃない。|読書感想文
#読書の秋2025に参加してみたい!と思い、課題図書を一冊選びました。
数ある名著の中でも、わたしにはこれしかありませんでした。
『自分とか、ないから。』
なんといっても、このタイトルが凄いではありませんか。
自己分析ブーム、性格診断ブームの大・自分探し時代において、誰しもが衝撃を受けるはず。
かくいうわたしも、自分の本質とやらを求めて、自己分析、他己分析、MBTI 、ストレングス・ファインダー、どうぶつ占い、ラブタイプ診断、四柱推命、算命学、手相占い、etc…ありとあらゆる自分探しをやり尽くしましたから。
それをたった一言で、「ないから。」
いいですねぇ。
言ってくれますねぇ。
わたしはこうやって自分の頭をハンマーで殴ってもらうことが大好きなんです…!
かつて地元の神童であったという著者は、32歳で無職になり、離婚。
虚無感で実家の布団から出られなくなってしまったときに出会ったのは「東洋哲学(仏教)」でした。
本書は、彼の気付きと再生の道のりを笑いアリ涙アリでつづられたエッセイです。
さて、「東洋哲学(仏教)」の内容に入る前に、著者しんめいPさん自身についての感想です。
本書の一言目は「虚無!」から始まり、ご自身の辛い経験をキャッチーな文章で勢いよくつづられているのが印象的です。
「布団から出られなくなった」と、どこか柔らかく書かれていますが、医療機関で何かしらの診断が下されるに違いない、心の病を患った状態だったはず…。
そんな中で「東洋哲学(仏教)」との対話を続け、自力で虚無感から脱出されたとは、勇者オブ勇者、いえ、仏陀オブ仏陀ではなかろうか?とわたしは思いました。
彼の文章を読んでいると、一度すべてを手放して空っぽになった人は、余計なプライドがなくて爽やかだし、なんかポップだなと。
節々でご自身をいじり、「黒歴史」だって何だって見せて、読者を楽しませようという、奉仕精神も感じられ、そこに胸を打たれました。
そして東洋哲学の抽象的な概念についても、「わからないところもある、でも僕はこう思いました」という、非常に正直で気持ちのいいバランス感覚のもと書かれた本だと感じました。
ですので、挑発的ともいえるタイトルに戦闘態勢をとってしまった方も、どうか安心して手に取っていただけたらなと思います。
マインドフルネスな感覚「空」ってあれのことか
意外な発見だったのは、仏教僧だけのものだと思っていた概念や感覚が、わたしが既に知ってるやつだったということです。
とくにおもしろいのが、龍樹(りゅうじゅ/ナーガールジュナ)が説いた「空」(くう)です。
龍樹は「空」の哲学で、こういいたかったのだ。
この世界は「ディズニーランド」みたいなもんである。
(中略)
この世界は、「ことばの魔法」がうみだした幻なのだ。
そうなんですよ、わたしは本当は知っていました。
ていうか、わたしたちは皆気付いていて、その上でうまく役を演じながら社会で生きているんでしたよね?

これがわたしだと思っていたものは、わたし一人では成り立たないものばかり。「フィクション」の世界に属するための「ことば」があるから、あたかも存在しているかのようですが、これが実体ではないんでした。
「フィクション」の世界が解除されたとき、龍樹のいう「空」を感じることができると著者はいいます。
例えば、卒業式のあとの教室なんかは、「空」なのではないか…という彼の気付きには、思わず膝を打ちました。
自分から、「机」という役目を解放された、元「机」。
なんかよそよそしい感じがする。
木の板とか、金属のあしが、妙にキラキラしてみえたりする。
あれはノスタルジーによるフィルターだと思っていたのですが、学生生活という物語の終わりが、わたしの心に「空」をもたらしていたのかもしれません。
ちなみにわたしは、廃校となった昭和の校舎を見に行くのも好きだったりします。空っぽの廊下や教室にぽつんといると、不思議な感覚になるんですよね。
床の木目などをまじまじと見つめて、「学校」を作るために、山の木々がここに集まってきてたんだな…と思いをはせたりします。

そして、わたしは海外に行くのも好きですが、そこでの感覚もぜひシェアしたいと思いました。
ひとくちに海外旅行といっても、誰もが心躍るような観光地・世界遺産に行くパターンと、あてもなく町を一人でお散歩するパターンとがあります。
前者はまさに「ディズニーランド」的な興奮と感動を与えてくれるものですが、「空」なのかも…と思うのは後者の、よく知らない場所に一人で降り立った、あの感じのことです。
早朝に着いて、まだ眠っている町の中をお散歩しているとき、マインドフルネスな感覚が心地よいのです。

今すれ違ったおじさんが、どんな言葉を話し出すのかわかりません。
そしてわたしも、彼にとっては正体不明。
どんなふうに見えたかなと考えて、なぜかニヤニヤしそうになるんです。
この場に限っては、わたしがハーバードの学生だとか、放浪の画家とか、山犬に育てられた娘とか、まったくのウソを語っても、成立しちゃうかもしれないんですよ。
真実だと思っていた、学歴、社歴といったわたしのプロフィールが、ここでは無効化されています。少なくとも、さっきのおじさんには通じないですし。
何者でもないと感じるのに、孤独や虚しさはなく、むしろなんだかすがすがしい気持ちです。
空気がおいしい、水たまりに映る空の青が美しい。風が心地いい。
わたしの世界だと思っていたフィクションから抜けることの気持ちよさ、「空」ってそれかもな…と心当たりがあったことは、嬉しい誤算でした。
最強の武器『戯論』を手に入れた
次は、「空」の哲学ですべての悩みを払拭してくれる「戯論」(けろん)の話がよかったです。
そもそも、わたしたちは人の変わらない本質が存在すると勘違いし、「自分は才能がないから仕事ができない」とか、「自分は弱者だから結婚ができない」といった誤ったロジックを組み立てて、悩んでしまうのです。
龍樹は、こういうまちがった思考を、「戯論」とよんだ。
「クソしょうもない考え」という意味だ。
自分で「クソしょうもない考え」の中にはいりこんで、出られなくなっているのが、ぼくたちの姿なのだ。
あれは病んでたなーという時期のことを思い返すと、うまくいかないのは自分に課題があるからだと考えて、自己分析や内省を繰り返し、とにかく"自分探し"に狂っていました。
例えばなかなか仕事が決まらなかった頃は、「自分は頭でっかちで世間知らずで生意気で、社会不適合者なのかも」など激しい妄想に囚われて、本気でめそめそしていました。
恋愛がうまくいかないときは、これまた勝手に辿り着いた「自分は可愛いくないし、甘え下手で空気も読めないから、男性には愛されないんだな」という結論に落ち込みました。
あまりに辛いのでカウンセリングを受けたら、「原因探しはもうやめましょうね」と言われました。
わたしの本質とやらを心理のプロに見抜いてほしくて相談したのに…。
結論、これがいちばんの処方箋でした。
もう考えなくていいのかと思ったら、いつの間にか考えることを忘れていて、すごくラクに息をしてケラケラ笑っているわたしが戻ってきたんです。
まさに、あれが「戯論」だったんか!
世の中、自己分析ツールにあふれています。
さっきのネガティブ全開なセルフイメージも、様々な「〇〇診断」の結果、「あなたの弱み」や「~に気をつけましょう」といったありがたいアドバイスを加味して組み立てた、わたしなりのロジックだったんです。
強みはコレ、弱みはコレ、とエピソードもまじえながら言語化すればするほど、自分のようでいて、自分ではないものができあがり、泥沼にはまります。「ことばの魔法」は恐ろしいものです。
診断結果は、自分の全てでもなければ、ずっと変わらない本質でもありません 。すべては、わたしが作った物語だったんです。
解決すべきわたしの問題も、正しく証明すべき価値や能力も、そこにはなかった。
ないものを探してもしょうがないんです。
そもそも、すべての悩みは成立しないのだ。
だから、ぜったい大丈夫なのだ。
本書のこのたった2文で胸がいっぱいになりました。
そしてわたしのおばあちゃんのことも思い出しました。
子どもの頃、両親が夫婦げんかをすると、おばあちゃんの部屋に逃げ込んでいました。「お父さんがこう言って、お母さんはこう言った」と一生懸命説明して、おばあちゃんに仲裁してもらおうと思っていました。
おばあちゃんは「大丈夫、大丈夫」と言うだけで、「ほんまにわかってる?」とわたしは不満でした。
でも、本当に大丈夫でした。
両親が今も別れていないからという意味ではなく、夫婦でいることも、離婚することも、「ことばの魔法」にかかったフィクションだからです。
寂しく聞こえるでしょうか。わたしはすごく前向きな気持ちになれます。
すべての幻がきえたら、どうなってしまうのか?
「虚無」だろうか。
ちがいま~す。
こたえは、「ぜんぶつながってる」である。
これを「縁起」という。
夫婦や家族という物語があっても、なくても、わたしたちは絶対につながっているんです。
ひとりぼっちだと思ったとき、そんなことは成立しないんです。
「空」の哲学に触れたことで、わたしはワクワクしています。
自分を定義する「ことばの魔法」にかかったのなら、うまく利用して「なりたい自分」になったらいいし、そこからいつでも抜け出すことだってできるんです。
悲劇のヒロインを演じ続けるのではなく、コメディも、冒険活劇も楽しめる。そんなワクワクに包まれている感じです。
これは、悩みや不安に振り回されている人にとって、最強の武器になると思います。
「東洋哲学」と付き合うために心がけたいのは、これらは人生をラクにするために生まれた考え方だという点です。
「世の中の真理」みたいな言葉は流行っていますが、自分は人よりもそれに近づいている…!なんて、マウントを取るための道具にはしたくありません…。
それに知識だけをなぞっていると、誰かが悩みを打ち明けてくれたとき、「考えても意味ないよ」「お前、何者でもないよ」と切り捨ててしまいかねません。
そうやってニヒリズムに傾くのではなくて、「この物語からはいつでも出られるし、この役も降りられる」。そしてもっと自分の心地良い物語を作っていけばいいじゃないか——そういう前向きな生き方を提案しているのが、東洋哲学だとわたしは思います。
せっかくの宝刀を振り回して、誰かを攻撃しても仕方がありません。
悩みを打ち明けてくれた相手には、きちんと鞘に納めたまま、この宝刀をさずける!(使うかはお任せ♪)
そんなノリがいいのではないかなと思っています。
まずは、この本すすめてみる!
そして、ついでにわたしの記事も読んでもらえたら嬉しいです。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
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