小説:『琥珀色の臨界点 ― 11時までの聖域 ―』
小説:『琥珀色の臨界点 ― 11時までの聖域 ―』
第十一章:未踏の琥珀色
11時11分。 ゾロ目の時刻が、デジタル時計の上で静かに光った。 男の前には、まだ手つかずの三杯目が、静謐な水面を湛えたまま置かれている。
彼は、まだ飲んでいない。 ただ、そこから立ち上る透明感のある香りを、肺の奥深くまで吸い込んでいるだけだ。 一口も含んでいないのに、彼はその味が「スッキリしている」ことを確信していた。 それは、彼が今日、死の淵から這い上がり、三杯のコーヒーを注文するという「反逆」を成し遂げた末に辿り着いた、魂の共鳴であった。
12時になれば、元気になれる。

その根拠なき確信を、彼はこの一杯を「飲まない」という行為で証明しようとしていた。 自分には、時間を支配する権利がある。 喉の渇きに負け、本能のままに飲み干すのではない。12時という自らが定めた祝祭の時まで、この熱を、この香りを、最高潮の状態に保ち続けるのだ。
「……待つことすら、今は心地よい」
男は、自嘲の混じった、けれど力強い微笑みを浮かべた。 朝のあの凍てつくような絶望の中にいた自分に、教えてやりたかった。 お前は数時間後、三杯目のコーヒーを前にして、12時という未来を待ちわびる「自由」を手に入れているのだと。
彼は、カップを包むように手を添えた。 まだ熱い。 だが、その熱はもう彼を拒絶するものではなく、12時という約束の刻へと導く、優しい灯火(ともしび)であった。
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